詩篇30
全国で緊急事態宣言が解除されつつあります。感染者も減少傾向です。教会での礼拝も、来週から、再開します。
もちろん、新型コロナウィルスの問題が完全に終わったわけではありません。感染の第二波が来るとも言われています。なので、今なお、感染防止対策を取るよう、お互いに協力しているわけです。
しかし取りあえず、この状態まで来たことに感謝します。もちろん、ここに来るまで、多くの命が奪われ、家族を失われた方々がいました。遺族の痛みはこれからも続くでしょう。私たちは、キリスト者として、ご遺族の平安と慰めを祈り続けたいと思います。
今日の詩篇は、重い病気から癒された人の、感謝の祈りです。
1節「あなたは私を引き上げ」とあります。詩人は死の床から引き上げられたのです。彼は、生存率のきわめて低い、重い病に罹っていました。けれどもそこから、救い出されたのです。
私と同年代の、プロ野球の元コーチの方が、新型コロナウィルスの感染から回復し、闘病生活についてインタビューを受けていました。発症したのは政府が全国に緊急事態宣言を出した頃で、世の中では大きな問題になっていたけれども、まさか自分が感染するなんて思ってもいなかったそうです。入院直後から、肺が苦しくなり、身体が動かない。感染の危険があるので家族とも会えない。そのうち、死を意識するようになり、「怖い」「家族に会いたい」という気持ちが強くなっていったとお話しになっていました。入院して2週間後、陰性の結果が出たときには、涙が止まらなかったそうです。
詩篇30篇を書いた詩人も、同じような経験をしたのだと思います。信仰者である彼は、病の床で2節「叫び求め」たと言っています。もちろん、神さまに、です。万策尽き果てた中でも、神さまが自分を癒してくださると、彼は期待しました。その結果、彼は3節「あなたは私のたましいをよみから引き上げ」「穴に下って行かないように」してくださった。「よみ」も「穴」も死の世界を表しています。
詩人は癒されました。病から回復しました。そして神に感謝の祈りをささげます。それがこの詩です。けれども彼は、ただ病気が治ったことを感謝しただけでなく、11節「あなたは私のために嘆きを踊りに変えてくださいました」と告白します。
私たちも試練の中で神に祈ります。そしてその苦しみが一刻も早く終わることを願います。けれども神は、私たちの人生のすべてを、恵み深い心でご計画され、試練を終わらせるだけでなく、試練を祝福に、苦しみを喜びに変えてくださるのです。
今日の説教題は「嘆きを踊りに」。
2020年が明けてから、世界はずっと嘆いてきました。まだ今も嘆いています。これからも嘆きは続きます。そして私たちはひたすら、コロナウィルスの終息を祈ってきました。
しかし神は、この嘆きを終わらせるだけでなく、この嘆きを踊りに変えてくださる方です。苦しみを通った世界に、喜びを纏わせようとしてくださっている。重い病を癒された詩人は、闘病の中でそのような信仰の体験をしました。私たちもまた、この詩人と同じ神を信じ、同じ信仰を持つ者として、同じ体験を期待できます。苦しむ世界を神はあわれみ深く見つめておられます。その神のみわざを、私たちは、信仰者として、世界に伝える責任もある。
詩人は、病気から快復する行程で、どんな信仰体験をしたのでしょう。何を見出したのでしょう。
彼がまず見出したものは、神の恵みの大きさです。
5節「まことに御怒りは束の間」。「御怒り」と表現されているのは苦しみや病のことでしょう。しかしそれは束の間であって、いっぽう、恵みは永遠に尽きないのだと詩人は告白します。試練は一時的なものです。けれども人生そのものは、すべて神の恩寵のなかで守られている。
「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」。夜は必ず明けて朝が来る。それが神とともに生きること、神に守られて生きるということだと、詩人は信仰による平安を味わって、そして告白します、6節「私は決して揺るがされない」。さらに彼は、同じ信仰を持つ仲間に、連帯を求めます、4節「主にある敬虔な者たちよ、主をほめ歌え。主の聖なる御名に感謝せよ」。私たちも、詩人のこの賛美に心を合わせるよう、求められているのです。
試練や苦難は、その渦中にいる私たちを圧倒します。しかし、私たちの人生全体を見渡される、神の視野においては、それは一時的で小さなものです。その小さな試練も含めた、人生の最初から終わりまで、一場面もおろそかにされることなく、神の恵みが支配しています。私たちの生きる、どんな時間も、神の恵みと無関係に流れていくものはないのです。だから、私たちは決して、揺るがされることがありません。
しかし詩人は、その神の恩寵に目を向ける中、自分の傲慢さに気づかされます。7節「主よ、あなたはご恩寵のうちに、私を私の山に堅く立たせてくださいました。あなたが御顔を隠されると、私はおじ惑いました」。「私の山に堅く立たせる」とは、人生の成功を意味します。その成功は、神の守りと支えによって実現したものなのに、詩人は、繁栄に浮かれて、自分自身を誇っていたのです。でも「あなたが御顔を隠されると」、つまり、病に罹ると、自分は自分の身体すら自力でコントロールできないことに目が開かれます。そして、繁栄の中で、神さまとの関係があまりにも希薄になっていたことに思い至るのです。
旧約聖書の申命記に、このように書かれています、「気をつけなさい……あなたが食べて満ち足り、立派な家を建てて住み、……豊かになって、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れることがないように」(8:11-14)。人はそういう弱さがあるのです。
神を忘れて生きることは、病気やあらゆる試練よりも、大きな問題です。詩人は、病気に苦しむ中で、人生の本当の問題に目が開かれ、あるべき生き方へと修正させられました。もちろん、病気は神さまの罰などではありません。けれども、驕り高ぶる歩みは、人の健康をしばしば損ねます。詩人は、浮かれた日々の中で身体を壊し、病を得て、そして、自分自身が、病気以上に重大な問題を抱えていることに気づくのです。それは神との関係です。
私たちも、コロナウィルスで、いろんな変化を強いられてきました。そして、これまで当たり前だと思っていたものが、じつは神の守りと備えのもとに存在していたことに気づいた、そういうことはないでしょうか。
ソーシャルディスタンスということが言われています。私たちは他人とディスタンスを保つことを求められながら、外出自粛で、家族とのディスタンスは近くなりました。一緒に過ごす時間が増える。これまでは、一緒に買い物をしたり、お出かけをすることで、家族だという実感を得てきたものが、出かけられない中で、お互いに向き合い、人格に触れあう機会が増えたかもしれません。もちろんその中で摩擦もあるでしょう。でも良くも悪くも、関係が深まりました。
私もGW中、初めて、スカイプでオンライン帰省をしました。不思議なのですが、本当に帰省するよりも、お互いの顔をじっと見つめるので、距離も会話も近くなります。
そして、神さまとのディスタンスについても、きちんと考えて頂きたいのです。いろんな変化の中で、これまでの、自分と神さまとのディスタンスは適切だったのかを問い直す。また、これから、どのように神さまとのディスタンスを縮めていくのかを考える。その中で、信仰の悔い改め、つまり、これまでとは違う、信仰生活を送ろうという決断ができるとしたら、それは幸いなことです。
さて、詩人はそのような悔い改めの中で、信仰者である自分の人生の意味を問い直します。試練の中で、その苦しみを神の光の中で見つめ直し、自分がどう生きることが、神の栄光に繋がるのかを考えるのです。
9節「私が墓に下っても、私の血に何の益があるでしょうか。ちりが、あなたをほめたたえるでしょうか。あなたのまことを告げるでしょうか」。「血」とは生命が終わることです。自分が死んでしまったら、もう主を証することもできない。賛美もできない。それは何の益になるのか。益とは、神さまにとっての利益のこと。詩人は、自分の病が死で終わるのか、あるいは癒されるのか、そのはざまで、両者がどのように神の栄光に繋がるのかを考えます。そうやって、単に自分の願いを訴えるだけであった祈りの姿勢を整えるのです。その結果、やはり病を癒やして頂きたいのだという祈りを神の前に確立します。
私たちもしばしば試練に遭い、苦しみの解放を求めて祈ります。しかし、それだけで終わらず、その苦しみを神の光の中に置き、この試練がどのように神の栄光に繋がるのか、あるいは繋がらないのかを考えるのは、困難で厳しいけれども、大切なことです。
そして同時に、そもそも、自分が今、生かされているということの意味を、神の前に問い直していくことも必要です。
私たちは今、不思議にも生きています。コロナウィルスで世界の多くの人が亡くなっているのに、今のところ、感染せず、こうやって礼拝できている。なぜ自分は生きているのか。いや、生かされているのか。自分が生かされていることは、神さまの栄光にとって、どのような益があるのでしょう。私たちは、何のために、この世界に生かされているのでしょう。
詩人は、自分が癒されて生きることこそが、神の栄光に繋がると確信しました。そして祈ります、10節「聞いてください、主よ。私をあわれんでください、主よ。私の助けとなってください」。
そして祈りは聞かれます。11節「あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。私の粗布を解き、喜びをまとわせてくださいました」。イスラエルでは、嘆き悲しむときに粗布を纏いました。神がそれを取り去られるのは、苦しみが去るからです。
嘆きが踊りに変わる。それが詩人の祈りのゴールでした。
詩人が最初、願っていたのは、病気の癒しでした。しかし、神がその願いに応じただけであったのなら、「嘆きを踊りに変える」ではなく、「嘆きが終わる」という表現だったはず。嘆きが踊りに変わったとは、詩人が苦しみの中で、自分の人生のすべてを覆っている神の恵みに気づき、悔い改めに導かれ、自分が生きているのは神の栄光を現わすためだと悟らされた、そういう、信仰の体験を告白しているのです。
祈りを聞かれる神は、嘆きを踊りに変えてくださいます。
先ほどの子どもプログラムで、パウロの願いは叶えられなかったとお話ししました。祈りは、いつでも、自分の願い通りに叶えられるわけではありません。しかし、嘆きの中で始まった祈りは、必ず、踊りに変えられます。神は私たちの身にまとう粗布を脱がせ、代わりに喜びで覆ってくださいます。
パウロもそのような経験をしたのです。病は癒されませんでしたが、持病を持つ弱さの上に神の力が現れるという、神の法則を悟りました。病があるからこそ、より一層、主の栄光を輝かせることができる、そのような自分の人生の意味を見いだして、彼の嘆きは踊りに変わったのです。
神の恵みの中で祈り続けるなら、自分の願いが叶う、叶わないは別として、嘆きが踊りに変わるという経験を、私たちは、させて頂けます。
最後に詩人は、なぜ主が、自分の嘆きを踊りに変えられたかを考え、それを告白します。
12節「私のたましいが、あなたをほめ歌い、押し黙ることがないために」。神のあわれみを経験した者として、今後ずっと神を賛美して生きていく。もちろんそれは、歌うということを超えて、自分の行動の全てで、神をあがめるということです。つまり、主の栄光のために生きていくということ。
私たちは、自分の痛みや苦しみを、この詩人のように赤裸々に主に告白し、どこまでも「聞いてください、助けてください、主よ」と祈り続けて良いのです。いえ、そうすべきです。主はその祈りを聞き、嘆きを踊りに変えられます。私たちが願ったようになっても、ならなくても、私たちは、主をほめたたえる賛美の踊りを踊れるようにされるのです。その踊りを主の前に精一杯踊りながら生きる、それが主の栄光に繋がります。 私たちの痛みは、夕暮れ時の涙です。それは辛く痛みを伴いますが、必ず喜びの朝が来ます。そしてそれを通過しなければ得られない、喜びのダンスが授けられ、そのダンスをもって、自分にしかできない賛美を神に献げることこそ、私たちが生かされている理由なのです。