天の父に信頼して祈る

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マタイ6:5~8

 2週間前、今日の箇所の前の段落、「人に見せるために人前で良い行いをするな」というイエスさまのみことばを聞きました。その後、隔週水曜の夜に開催されるパンの会で、そのメッセージの感想を分かち合ったのですが、ある方が「人に見せるために良いことをしようなんて、考えたこともない」とおっしゃいました。まぁそうかなぁとも思います。

 でも、今日の箇所は、それにもまして、私たちを当惑させるみことばです。

 5節「彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです」。「ええっ?人前で祈るのが好きなんですか?私は好きではありません」という方が大半、ではないですか? 礼拝の感謝の祈り、回って来ないといいのになぁと思いませんか? かつて、私は、岐阜の教会で働いていたとき、自分が奉仕当番表を作るのを良いことに、自分だけ祈りの当番が回ってこないシフトを作っていました。誰も気づかなかったので良かったですが、いま、思い出しながら、職権乱用して、本当に神さまごめんなさいと反省しています。私も人前で祈るのは正直、緊張するのでイヤなのです。皆さんの中にも同じ思いの方がいらっしゃるでしょう。

 こんな私たちは、イエスさまが懸念するような偽善者になることは決してない!……でしょうか?いいえ。人前で人に見られたくて祈るのも、人前で祈るのを出来れば避けたい私たちも、同じ線上に立っています。前回同様、人の目を気にして、信仰の道からズレてしまっているのです。

 祈りは演説でもスピーチでもありません。下手とか上手と言った、評価の対象ではないのです。私たちはよく「あの人の祈りは素晴らしい」と思ったり、言ったりしますが、それ自体、おかしなことかもしれません。人の祈りは聞くものではなく、また自分の祈りは聞かせるものではありません。

 イエスさまは、偽善者の祈りを糾弾しただけでなく、ここで、祈りについて、私たちに教えてくださいます。なぜなら、祈りは信仰生活の呼吸だと言われるように、信仰の命を保つために、どう祈るかは、きわめて重要だからです。

 祈りとは何なのでしょう。どう祈れば良いのでしょう。主イエスさまは、祈りについて、何を教えてくださるのでしょう。

 第一に、祈りとは神さまとの個人的な交わり、一対一のコミュニケーション、そう教えられます。

 イエスさまは人前で祈る偽善性について語られましたが、人前での祈りを禁じられたわけではありません。礼拝で、感謝の祈りの奉仕は喜んでするべきです。教会の祈り会も積極的に参加すべきです。

 けれども祈りは本質的には個人的なものです。6節は、5節とは違い「あなたがた」ではなく、「あなた」と呼びかけが変わります。それは、祈りが、私たち一人一人と神との個人的なものであることを示しています。

 6「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい」。「奥の部屋」とは、当時の家にはたいてい、食糧を貯蔵する地下倉があり、そこを指していると思われます。リビングやキッチンのように人が集まるところではなく、まぁいわば、日本流で言うなら、押し入れの中に入って祈りなさい、みたいなところでしょう。さらに「戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」。祈るときは、他の一切のものから隔離され、神と二人きりになって祈りなさいと言われています。

 クリスチャンは、定期的に、神と二人きりになる必要があります。一人で、神のみことばを聞き、一人で、神に祈るのです。

 とは言え、実際、この日本の住宅事情の中で、個人の部屋を持つ親たちはどれほどいるでしょう。一人になるなんて不可能な気がします。

 しかし、あるお母さんは、16人の子どもを育てながら、毎日、一人きりの祈りの時間を持ち続けたそうです。どのように。彼女は台所で、エプロンを頭に引き上げて祈ったのです。18世紀のことです。狭い家で、このようにして彼女は祈り続けました。騒がしい子どもたちは、次第に母親の信仰を重んじることを学び、お母さんがエプロンを頭に載せたときはピタッと静かになったそうです。こうして子どもたちは、神を第一にすることを身に付け、子どもの一人は牧師に、他の一人は讃美歌の作者となりました。ジョン・ウエスレー、チャールズ・ウエスレーという人たちです。

 子育てや、仕事や、家事や、またあらゆる生活の物事から自分を引き離して祈る。戸を閉めて、誰にも見られないところで、誰にも聞かれないところで、本心を神に打ち明ける。それはありのままの自分になって祈るということです。本心を語らない交わりは、どこまでいっても距離が縮まりません。関係が深まらないのです。それでは本当の関わり合いが持てません。

 神に本心を打ち明けていますか。ホンネをぶつけていますか。それを聞く神は「あなたの父」だと主イエスはおっしゃいます。子どもを愛している父なのです。父親として私たちを愛してくださる神になら、自分のあやまちや失敗をそのまま告白し、自分の本当の願いを打ち明け、自分の迷いも、自分の弱さも率直に言えるのではないでしょうか。そういう、深い交わりが祈りなのです。

 第二に、祈りとは願い事ではなく、神ご自身を見つめるものだと主イエスはおっしゃいます。

 7「祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです」。

 「異邦人」とは異教徒のことです。日本流に言い換えるなら、神社での受験合格祈願や、初詣で商売繁盛、無病息災を祈るような、そういう祈りではいけないと言われたのです。これらのお祈りの特徴とは何でしょう。それは、祈りの対象である神が中心ではなく、お願いごとが中心になっていることです。あの学校に入学したい。そのためにどの神社が最もご利益がありそうか、探して、そこにお賽銭を投げに行く。これでは信仰ではなく陳情です。そして自分の願い通りにならなかったら、あの神にはご利益がないと文句を言うのです。

 「同じことばをただ繰り返す」と言われています。これは、当時のユダヤ人が、18連祷と呼ばれる長い祈りをささげていたことを皮肉っています。その祈りは、「私たちの神、父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、偉大な神、力強い神、恐るべき神、いと高き神……」と、いくつもの神さまの称号を述べることから始める祈りで、その称号を一つでも忘れるなら、祈りの効力が薄れると思われていました。お願い事はどうしても叶えて欲しいですから、皆、必死になって、この称号を忘れないようにと、そこに集中して祈ったのです。でもこれでは、異教徒がただ願い事成就を祈ることと同じです。

 祈りは、願い事を中心にするのではなく、祈る相手である神を中心にするのです。

 もちろん、心に願い事があり、それを神に訴えるのは人として自然なことです。その願いを包み隠さず、ありのまま打ち明けなさいと主は言われます。しかし、その祈りの中で中心となるのは、その願いを抱く自分の心であり、また私たちを幸せにしたいと願う神の思いです。私たちは、願いごと成就のゴールを思い描き、それを神が確実にそれを実現するようにと要求してしまいます。けれども祈りとは、そういうものではない。私の思いを神に打ち明け、神にその思いを聞いて貰う、また祈りの中で神の思いを悟っていく、そのような神さまとのコミュニケーションなのです。

 なぜなら、8節「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」。

 私たち以上に、神さまは私たちのことをご存知で、私たち以上に神さまは、私たちの幸せを願っています。私たちは自分の小さな知恵で、あれが欲しい、こうして欲しいと祈ります。ありのままの気持ちを神に申し上げるのは良いことです。しかし、その小さな知恵を上回る、大きな御心で、神は、私たちの願いや思いを取り扱われます。そして、すぐには応えられないことがあり、あるいは、その時には願いが効かれないように思えたことでも、後になって、自分の願い以上の良いことを神はしてくださったのだと分からせられたりするのです。

 神さまは、私たちが祈る前から必要な物をご存知です。でも、だから祈らなくていい、のではなく、だからこそ信頼して祈るのです。

 祈りを通して神を体験する、それが祈りの目的です。祈らなくても与えられた人は、それが神からの恵みであると悟ることができません。そして人生を喜ぶことに乏しい。しかし祈る人は、それが神からの恵みであることを認識して、感謝し、人生を喜び、自分も人に何かをしたいと願うようになる。祈りは生きる力です。

 キリスト教の祈りは独特です。多くの人は、祈りとは願いごとを叶えるための手段であり、叶うか叶わないかがすべてであると思っています。しかしキリストの教える祈りは、私たちを愛する天の父の恵みの中に入っていくことです。その中で、私たちの思いを超える、神の配慮を私たちは体験します。

 祈りと直接つながるのかどうか分かりませんが、神が私たちの必要を知っていることを教える、優れた絵本があります。「三本の木」という題名です。有名な絵本なので、お持ちの方もおられるかもしれません。こんな内容です。画像は、絵本とは違いますが……。

 三本の木が、それぞれに将来の夢を描くのです。ある木は宝箱になりたいと夢見ました。また別の木は外国へ行く大きな船になりたいと願っていました。そしてもうひとつの木は、そこにそのまま立ち続け、大きな大きな木になりたいと思っていました。

 けれども、宝箱を夢見た木は、家畜のエサを入れる飼葉桶になってしまいます。外国船になりたいと願った木は、小さな魚を獲る船になりました。さらに大きな木になりたいと思った木は、材木にされました。

 けれども、ある日、飼葉桶の中に、救い主イエスさまが寝かされたのです。それはどんな宝石よりも素晴らしい、世界の宝物でした。また、魚を獲る船に、ある日、イエスさまが乗られ、救いのことばを語られたのです。そのみことばは、世界中に伝えられ、世界の人々を救いました。さらに、材木は、長い間、何にも使われませんでしたが、ある日、十字架に組み立てられました。そして、そこにイエスさまが磔にされ、十字架の上で、イエスさまは救いを成し遂げられたのです。そのとき以来、十字架は、どんな木よりも尊い存在となりました。

 三本の木が具体的に願ったことは叶わなかったのですが、じつは、その願いを抱いたそれぞれの木の思いを、神さまはしっかり受け取って、彼らが願った以上のことをしてくださったのです。

 私たちの祈りの生活の中でも同じことが起こります。そして、神さまのお答えこそが、本当に素晴らしいのだと、神さまをほめたたえるようにされるのです。

 私たちが祈る相手は、私たちの父です。父は子どもである私たちの思いを理解してくださいます。どれほど切羽詰まったものであるか、どれほど長く耐え忍んでいるか、どれほど情熱的に待ち望んでいるか。

 同時にその父は、親として、私たちが成長し、前進するため、また本当の意味で人生を良いものにするために、何をいつどんなふうにするべきか、ちゃんと考えてくださっています。

 そのような神に、私たちはありのままの思いを打ち明け、信頼しながら祈ることができるのです。

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