誰にいいね!と言われたい?

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マタイ6:1~4

 ある教会の牧師夫人から聞いたことですが、そこの教会に通う、小学6年生の女の子たちは、ティックトックにハマっている。ティックトックってご存知ですか?動画を作成したり、作成した動画をインターネット上に公開できるアプリです。その子たちは、自分の動画を撮影しては公開し、閲覧者から「いいね」というボタンをポチっと押してもらうことを何よりも楽しみにしているとか。まぁ、面白そうでいいんじゃないと思いますが、「でもねえ」と牧師夫人は言いました。「その動画に出て来る本人たちは、写真アプリで加工されて、本物の本人と、全然違う顔や姿になっているの。それを自分だって投稿して、いいねを集めるって、どうなのかしらねえ」。さあ、どうなのかしらねえ。皆さんはどう思いますか?

 新聞で読んで笑いました。小学校の漢字テストで、読み仮名をつけなさいと出された問題。「映える」、さて何と読みますか?「ばえる」と、自分の孫が回答しているのを見て、嘆くお祖母ちゃんの記事でした。若者が「インスタ映え」という言葉を流行らせたことに原因があるのでしょうか。「いいね」とポチっとされて、人々から承認されることは、大人も子どもも大好きです。

 人間の心は、人々の承認を求めます。そして、その承認欲求が、今日の聖書箇所のテーマです。

 1「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい」と主イエスはおっしゃいます。善行とは、当時のユダヤ教が教える3つの功徳のことで、施し、祈り、断食がそれに当たります。施しとは援助や人助けのことです。これは隣人への良い行い、そして祈りは神への良い行いです。そして断食は自分自身への良い行いでしょう。そういった良い行いを、実際以上に盛って行動し、人目に映えるようにいわばパフォーマンスして、人々から称賛を受けようとする。そういうのは、やめなさいと主イエスはおっしゃったのです。

 しかしこれを読んだ私は、ちょっとひねくれた思いを抱きました。イエスさまのいらっしゃった1世紀のユダヤ社会って、単純でいいなぁと思ったのです。

 現代は、善意も仇となる時代です。ある女性が、スーパーに行き、入り口で必死にカバンの中を探る女子高生を見かけたそうです。その目の前には「店内ではマスクを着用してください」の貼り紙。女性は、予備に持っていた、まだ開封していないマスクをひとつ、その高校生に差し出して「良かったら使って」と言いました。すると高校生は「そのマスクの袋にウィルスが付いているかもしれないじゃないですか!要りません」と叫んだ。女性は「ごめんなさいね」と謝って、その場を去りました。

 こんなことがあると、善意が心に浮かんでも、やめておいたほうが無難だという生き方に傾いていきます。なるべく何もせず、余計なことには関わらず、目立たないでいよう。しかしこれもまた、人からの承認に左右される生き方です。

 ではどうするのか。人が承認しようがしまいが構わず、自分が信じた道をひたすら突き進む。それはカッコイイかもしれませんが、人間は社会的な存在として造られています。人の評価はやはり気になるもの。聖書は、そのような人間の心理を否定しません。その代わり、誰の承認を求めるのかを問うのです。私たちは誰の承認を求めて生きているのでしょう。

 人からの承認を求めて生きる。1世紀のユダヤ社会で、目立ってそのようなことをしていたのは宗教家たちでした。現代で言うなら、牧師や神父たちです。イエスさまは別の箇所で「彼らがしている行いはすべて人に見せるためです」(23:5)と断言し、「わざわいだ」(23:15)と言われました。彼らは施しに熱心だったのです。けれどもその動機に問題があった。彼らは、助ける相手のためではなく、ましてや神に喜ばれるためでもなく、ただ、人に褒められたくて、すごいですねと言って貰いたくて行動していた。宗教的に「ばえる」生き方です。

 イエスさまはその行動を「偽善」だと言います。2節の「偽善者」という言葉は、原語のギリシャ語では「俳優」という意味です。そして「彼らはすでに自分の報いを受けている」という文にある「報い」とは、領収証を貰ってすでに支払い済みという意味。

 つまり、人からの承認を得ようと人前で良い行いをすることは、俳優が観客から観劇の料金を貰って演技する、その程度のことなのだと、イエスは言われるのです。

 さらに私たちは、私たちが生きるこの現代の複雑な社会の中においても、このイエスのみことばを適用する必要があります。人の評価を恐れて、良いことを行うのをためらってしまう私たちに、主は、何を恐れているのか、あなたが恐れているのは、そんなに重大なものではないと励まされる。

 5章で聞いたみことばを思い出しましょう。14、16「あなたがたは世の光です。あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」。私たちが良い行いをすれば、神さまが、あがめられる。そうであるなら、私たちが、神さまの願う良い行いをして、人から非難や中傷を受けたとき、それは私たちではなく、神さまが非難され中傷されていることになります。神さまと同じ立場に立って戦う者たちに、主イエスは言われました、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」。人の評価を恐れず、神さまの願う良いことをするために立ち上がる人は、神さまのご支配のもとにいるのです。それは何よりも安全で、祝福の道であり、そして名誉なことです。

 ですから、人ではなく、神からの承認、神から「いいね」を貰える、それだけを求めて、良い行いに励みましょう。とは言え、やはり、人の評価が気になる私たちです。人に褒められたいと心がどうしても傾きがちになる。そんな私たちに、主イエスは言われました、3、4「あなたが施しをするときには、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです」。

 右手のしていることを左手に隠すなんてことは、無茶な命令です。だいたい、右手や左手が物事を認知することなどできません。イエスさまは、右目をえぐれとか言うことと同様、ここでも、茶目っ気たっぷりに、大げさな言い方をして、聞く人の目を覚まそうとされます。言っていることは、誇張表現ですが、でも、それほどまでに徹底して、人に褒められるために行動するのは、やめなさいとおっしゃっているのです。せっかくの良い行いが偽善にならないために、人に見せるチャンスを徹底してなくせと言われます。なぜ、そんなに強く言われるのでしょう。それは、そうでないと1節「天におられるあなたがたの父から報いを受けられ」ないから。

 天の父、神さまのことです。天の父から受ける報い、それはどんなものなのでしょう。

 先ほど、人からの報いは、支払いという意味だとお伝えしました。それに対して4節の父からの報いは「贈り物」という意味の言葉が使われています。

 神からの報いは、私たちの行為に対する対価、労働に対する報酬のようなものではなく、それを優に超える贈り物です。私たちが神のために行動を起こした、それを神は大いに喜び、その喜びをプレゼントとして私たちに賜るのだと、主イエスは言われます。

 その報いについて、主イエスさまご自身が、別のところでこんなふうに語っています。マタイ25:31-40です。

 「人の子」とは主イエスさまのことです。そして羊と呼ばれる「正しい人たち」とは、人からの「いいね」を求めずに良いことをした人たち。なぜなら、彼らが善意を示した相手はすべて、社会の片隅に追いやられていた人ばかりだからです。空腹や裸であったのは貧しい人、旅人とは観光客ではなく難民や被災者のような、住居を失った人でしょう。また病人や、獄中にいた人です。羊と呼ばれる正しい人たちは、人々が無視して通り過ぎていくような困窮する人の前に、立ち止まり、仕えて、善意を施しました。この人たちは、あまりに困窮する弱い立場の人であって、助けて貰っても、十分なお礼もできず、場合によってはありがとうと言う言葉も発することができませんでした。主イエスが40節で「最も小さい者たち」と言っているのはそういう意味です。

 正しい人たちはそれでも、彼らを助けました。人からの称賛は、得られません。善意を施した相手からも見返りは期待できません。しかし彼らは、神がそれを喜んでくださると知っていたから、行動したのです。そして神も、そのことをちゃんと心に留めて、終末の再臨の日に、彼らに「あなたのしたことは、わたしにしてくれたことだと思っている」とお語りになります。そのように主から言って貰えたなら、すべての労苦は報われるのではないでしょうか。神がいいねと評価してくださる。それはかけがえのないものです。そしてその評価は永遠に消えることがありません。人の評価は一時的です。一瞬で忘れ去られます。SNSのいいねも数秒で流れ去ります。しかし神は、私たちのささやかな良い行いを心に留めて、それをずーっと終末の日まで忘れることなく、そして、この世界が新しく造り変えられる日に、私たちを呼んで、このように褒めてくださる。そういう天の父の報いがあるから、そっちを大切にしなさいと主は言われます。

 コロナウィルスが流行した中で、いくつかの新しい言葉が生み出されました。そのひとつが「自粛警察」。マスクを着けていない人、外出している人、営業している店などを見つけては、勝手に個人的に取り締まりを行う人たちのことです。取り締まりと言うか、もうほとんど度を越した攻撃で、この自粛警察を取り締まるために、本物の警察が出動していたり、もう大混乱を招いていますが。

 しかしこの自粛警察に「いいね」と承認する人たちもいるのです。もちろん、思想は自由だし、自粛警察をいいと思う人たちもいて構いません。しかし、その「いいね」が、社会を分断します。

 誰かに「いいね」を求めるのは、その人たちと連携することに繋がります。そしてその連携が、私たちの生活、人生に大きな影響を及ぼすのです。旧約聖書の箴言という箇所にはこんな言葉があります。「知恵ある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける」(13:20)。知恵とは神さまの持つ価値基準のことです。

 もしも私たちが神さまからの「いいね」を求めて歩むのなら、私たちは神と連携し、神の願う社会を実現する存在となるのです。そこにあるのは分断ではなく和解、平和そして愛です。

 神さまからの「いいね」を求めて歩みましょう。神さまこそ、世界の全人類の本当の幸せの源だからです。人目につかないところで、誠実に良いことを行い、人からときに誤解され、中傷されても、神さまが願うことであれば、勇気をもって行いましょう。 毎日の生活が、神さまからの「いいね」でいっぱいになるなら、その人生は大いに価値があります。その価値は永遠に続くもので、この世界が新しくなる日、世の中のすべての人の価値観も更新されて、神の「いいね」で満たされた人の人生こそが、こぞってリスペクトされるのです。

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