全てのキリスト者に聖霊が注がれる

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 緊急事態宣言が全国で解除されました。ホッとしましたが、第二波への懸念もあります。最終的には、ワクチンと治療薬が使用されるようになって、ようやく安堵できるのでしょう。薬の研究は世界で進められています。このウィルスは世界規模の課題ですから、国境で壁をつくらず、各国の研究機関が互いに協力し、情報を共有し合っていくことが必須です。情報に不足すれば、助かる命も危険にさらされてしまいます。

 このコロナ禍の最中、私の頭からずっと離れない言葉がありました。役員会ではお話ししたのですが、それは「血の責任」という言葉です。旧約聖書のエゼキエル書(33章)に出て来る言葉です。神さまは預言者に言います。悪い者はその悪の道を歩み続ければ死ぬ、だから、あなたはその悪人に、悪の道から離れるように警告しなさい。もしあなたが警告しても彼が言うことを聞かないなら、悪人は自分の悪のゆえに死ぬ。それは彼自身の責任である。しかしもし、あなたが彼に警告するのを怠って、何も伝えず、それゆえ彼が悪の道を歩み続けて死ぬのなら、その血の責任を、わたしはあなたに問う。

 もっと分かりやすく、現代の言葉で言い換えるなら、人が神を信じないままで死ぬなら、その人は永遠に救われない。そしてその人に、クリスチャンたちが神の救いを伝えなかったために、彼が救われなかったのだとしたら、その責任はクリスチャンたちにある。そういうことです。

 コロナウィルスで多くの人が亡くなりました。その人たちは、死ぬ前に、イエスを自分の救い主と告白していただろうか。もしもそうなら、死は別れの悲しみであるだけでなく、天国への希望の扉です。けれどもそうでないなら、死は、救いの可能性の期間を終わらせる、滅びへのサインです。コロナウィルスは感染の危険があり、家族でさえ面会できません。ましてや、伝道のために教会が病床を訪問するなどできません。病人が救われる最後の望みは、彼が人生のどこかで聞いた福音を、病床で思い出し、自ら、神に、救いを求める祈りをすることだけです。しかし、すべての患者がそうできるほどに、教会は、いや自分は、人々に福音を宣べ伝えて来ただろうか。いや全然できていない。そう思い、血の責任は私にある、と、そう悔い改めさせられたのです。

 今日はペンテコステ。クリスマス、イースターと並ぶ、教会の三大祭りの一つです。クリスマスはキリストの誕生を、イースターはキリストの復活を、そしてペンテコステは教会の誕生を祝います。その誕生の場面を伝えているのが、先ほど読んだ、使徒の働き2章です。ここには、教会とは何か、教会の存在意義が明確に記されています。それは、宣教をする共同体だということ。

 誕生の物語は1章から始まります。キリストは天にお帰りになるにあたり、弟子たちに、遺言のような言葉を残していかれるのです。その言葉が今日の暗唱聖句でした、使徒の働き1章8節「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」。こう言い残して、昇天されるのです。

 その十日後、2章1節「五旬節」の日になりました。五旬節はギリシャ語で「ペンテコステ」と呼ばれます。この日「七週の祭」あるいは「初穂の祭」と呼ばれるお祭りがユダヤであり、エルサレム神殿には礼拝者が世界中から集まっていました。

 弟子たちはその時、聖霊に満たされ、その人々の出身国の言葉で、神のみわざを語り出したのです。女も男も、若者も高齢者も、弟子の全員が、聖霊によって、神の救いを宣べ伝え始めました。さらにペテロが立ち上がってメッセージをし、その日、3千人ほどがクリスチャンになる決断をして洗礼を受けたと、聖書は伝えています。こうしてエルサレムに、世界で最初の教会が誕生しました。この教会誕生の物語は、教会とは聖霊によって宣教する存在だと教えています。

 私たちは今日、くしくも、教会誕生を祝うペンテコステに、礼拝を再開させました。今日は富田教会にとって、新たなスタートです。この再出発にあたって、主が私たち教会に伝えたいメッセージを聞いていきましょう。

 教会の誕生、それは聖霊による働きです。

 使徒の働きを書いたのはルカですが、ルカは福音書の中でイエスの誕生をこう語っています、「聖霊がマリアの上に臨み、いと高き方の力がマリアをおお」って救い主が誕生した(ルカ1:35)。そして使徒の働きにおいて、こんどは教会の誕生について「聖霊が弟子たちの上に臨むとき、弟子たちは力を受け……キリストの証人となる」(使徒1:8)と述べる。イエスの誕生によって救いの働きが始まり、第二幕は、そのイエスが天に昇ったのちに、教会が救いの働きを引き継ぎます。両者の誕生は聖霊が臨んだ結果です。

 聖霊さまは神さまです。しかしイエスさまと違い、この地上に下られても肉体をお持ちになりません。霊なのです。聖霊はクリスチャンの心に宿り、クリスチャンたちを通して、みわざを為さいます。どんなみわざか。4節「御霊が語らせるままに、他国のいろいろな言葉で話し始めた」。何を話したのか。11節「神の大きなみわざを語」った。聖霊は弟子たちにみことばを語らせたのです。

 聖霊様は、使徒の働きを読めば分かりますが、人知を超えた奇跡や癒しを為さいます。しかし聖霊の最も基本にして最大のみわざは、宣教のわざです。クリスチャンたちにみことばを語らせ、またみことばを聞く人の心に働いて、悔い改めに導く。みことばに従いたいと決断させ、神を慕い求めさせ、賛美と感謝に溢れさせる。それが聖霊様のみわざです。聖霊の働きはつねに、みことばと共にあります。

 神が教会を生み出した目的は、教会を通して、聖霊が、宣教の働きを為さるためです。

 その宣教の働きは、牧師や伝道師だけの特権ではありません。すべてのクリスチャンがみことばを語り宣教するのです。4節「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」。「皆」というのは、キリストの12弟子だけではありません。女も男も、若い者も高齢者もいました。職業もバラバラの者たちです。ただひとつ共通していたのは、イエスを救い主と信じて従ってきたということだけ。その皆が、聖霊に満たされて、用いられ、一人残らずみことばを宣教しました。

 旧約の時代、聖霊に満たされたのは特別な人だけでした。預言者や祭司、王たちといった、ごく限られた人だけが神の働きをしたのです。しかし教会が誕生したとき、そのような区別は取り払われました。それを旧約時代の預言者が預言しています。17節、18節「終わりの日に、わたしは、すべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見。老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する」。

 すべてのクリスチャンが宣教のために用いられる、それが教会の本来の姿です。教会に宣教の働きの補欠選手はいません。皆がレギュラーとして活躍します。皆が聖霊を与えられ、相応しい役割を任されているのです。

 けれども、そんなことはちょっと無理です……と言いたくなる、弱い私たちです。

 旧約聖書のエゼキエル書にこんな話があります(37章)。預言者エゼキエルは、自分も仲間の信仰者も弱り切ってしまっているのを感じ落胆していました。神さまはそんな彼にひとつの幻を見せます。それは枯れてバラバラになった人骨、骨の幻でした。骨に神の息が吹きかけられると、互いにつながり、骸骨になります。さらに筋肉がつき、皮膚が覆い、神はもう一度、息を吹きかけます。するとこの身体は起き上がり、自分の足でしっかりと立ち上がったのです。エゼキエルはそれを見て、自分たちもやり直せると励まされます。「息」は「ルーアアッハ」という単語です。このルーアッハは聖霊という意味でもあります。ルーアッハが吹き込まれて枯れた骨は組み合わされて立ち上がり、私たち弱いクリスチャンも、聖霊に満たされて、立ち上がることができる。

 しかし一方で、私たちは、私たちらしい働きをすれば良いとも言われています。主イエスは、聖霊に満たされたら説教者になれとか、聖書学者になれとは言われませんでした。1章8節「わたしの証人となる」と語られたのです。それは、弟子たちにとっては目撃したイエスの復活を伝えるということであり、私たちにとっては、いまも生きておられるキリストとの出会いを伝えるということです。

 金山の神学校で、教会教育を教えています。これから学生たちに、具体的な子どもメッセージの作り方を教える予定です。その最初に、学生に伝えたいと思っているのは、新聞に掲載されていた「良い新聞記事と悪い新聞記事」というコラムです。そこに「体温が低い記事は読者に読まれない」と書かれていました。つまり、実感がない記事は魅力がないということ。いくら聖書知識に満ちていても、本で読んで得た知識のコピーペーストのようなメッセージでは子どもに届きません。逆に、伝え方がデコボコで整理されていなくても、私はイエスさまによって救われましたーという強い感動と、そのイエスさまがあなたの人生も変えてくださるよという強い確信があれば、それがキリストの証人としての体温となって、相手に伝わるのです。

 体温を上げるためには、聖霊に働いて頂く場所を生活の中にちゃんと確保しておく必要があります。みことばを読むとき、聖霊がそれを理解させ、生きる力としてくださる。みことばに従おうと祈るとき、聖霊がそれを可能にさせ、御霊の実を実らせる喜びを与えてくださる。そうやって、キリストの証人としての体温が上がってくる。その中で宣教にチャンレンジする。

 昔、私たちの教団で、ダルマン宣教師という宣教師が働いていました。日本に来たばかりの頃の話です。古知野教会で留守番をしていて、ある日のこと、ピンポーンと呼び鈴が鳴り、出ると、セールスマンが立っていました。ダルマン先生はその商品には興味はなく、断りたかった。けれどもセールスマンに福音は伝えたかったのです。でも日本語が話せない。先生は、仕方なく、黙ったまま、日本語のキリスト教のチラシを差し出しました。セールスマンは帰りましたが、先生は、日本語が話せない自分にガッカリしてしまいました。ところが次の日曜日、そのセールスマンは、チラシを握りしめて、礼拝にやって来たのです。そのセールスマンとは、犬飼三郎先生のことです。若い宣教師の無言の宣教は、聖霊に導かれて、みごと実を結び、牧師を誕生させ、犬飼先生を通して多くの人が神の恵みに導かれました。

 私たちが弱くても、信仰者として枯れたような存在でも、聖霊によって、立ち上がることができます。そして聖霊によって、キリストの証人とさせられ、その宣教の働きは、自分の目には乏しいものであっても、聖霊によって、実っていくのです。

 さて、聖霊に満たされた弟子たちは「神の大きなみわざを語」りましたが、それは4節「他国のいろいろなことばで」でした。

 それを聞いてエルサレム神殿に集まっていた人々は8節「私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか」と驚きました。彼らはアジア、アフリカ、ヨーロッパの各地から集まって来た人々でした。とはいえ、ユダヤの言葉を理解できないわけではありません。毎年祭りのたびにエルサレムに来ているわけで、ほとんどの人がユダヤで話されるアラム語を理解できたでしょうし、また、当時の世界の公用語はギリシャ語でした。ですからギリシャ語で話せば普通に通じたはず。なのになぜ聖霊は、彼らの出身地の言葉で、神のみわざを語らせたのでしょう。

 その理由のひとつ目は、神が全世界のすべての人を、そのままで愛し、そのままで救おうとされた、それを伝えるためです。それまでは、聖書の神を信じる信仰者になるには、まずユダヤ人になる必要がありました。ユダヤ人の伝統を受け入れ、割礼という儀式を施し、豚肉を食べないなどの食事規定を守る必要があったのです。しかし神は、キリストの救いのみわざを通して、そのようなものを終わらせました。世界の人々は、その国の人間のまま、その国の文化と伝統に生きたまま、救われることができる。そして彼らの生活の場に教会を建てる。そのような神のご意志が表明されたのが、ペンテコステの出来事でした。

 さらに、当然のことながら、自分の国の言葉しか分からない人も中にはいました。その人たちにも、ダイレクトに神のみわざが伝えられる必要があります。

 30年ほど前、妹とドイツに行きました。昔、お世話になった宣教師が帰国していたので、その家を訪ねたのです。日曜日、午前中は、その宣教師が当時牧会していた日本人教会で礼拝を献げましたが、午後から、ドイツ国教会の教会に行って礼拝に参加しました。伝統的な格式高い教会で、週報もなく、牧師が朗々と説教を語る。いったいどの聖書箇所なのかも分からず、長い説教を聞くのは正直、苦痛でした。その時、日本語の分からない外国人が礼拝に出ている苦労を初めて思ったのです。

 神のみわざを世界中に、世界の言葉で伝える、それが神のご計画であり、聖霊はその計画をキリストの証人たちを用いて成就されました。そして現代、聖書は世界のほとんどの国の言葉で翻訳され、各地に教会は建てられ、それぞれの国の言葉で礼拝がなされ、それぞれの国の言葉とメロディーで讃美歌が作られ歌われています。これは聖霊のみわざです。

 さて、ドイツ国教会の礼拝が終わって、私は妹に、どんな話だったのか訊きました。妹は当時、ドイツの隣のオーストリアに留学中でドイツ語が話せました。けれども、言葉は理解できても、格調高い説教の中身はほとんど分からなかったらしく、妹は私にこう答えました。「悪い女の人と、石の話だった」。皆さん、どこの聖書箇所か分かりますか? ヨハネの福音書8章の、姦淫の女が石打されそうになるのを主イエスが止めた、その箇所です。私はその話だったかーと分かると、そのみことばを反芻し、説教は一つも分からなかったのに恵まれました。

 いっぽうの妹は、説教のリスニングはバッチリでも、説教の意味はピンと来なかったのです。教会に通わず、聖書知識もない者にとって、説教は、自分の使う言語であっても、まるで外国語そのものだったのでした。

 教会の文化が異国だと感じる人がいます。また逆に、教会側が、別の世界の人だと感じてしまう人もいます。教会の文化が受け入れて来なかった人々です。ある職業の人々。ある伝統の中に生きる人々。ある文化にのめり込んでいる人々。

 世界はグローバル化されて、国籍や言語による壁は低くなっています。教会もそうです。けれども教会にとっての「異邦人」がいます。その人々にも、神の大きなみわざは宣教されなければならない。しかも、彼らに届く言葉で。私たちはその言葉を持ち得ないかもしれません。でも、聖霊の力を受けるとき、御霊が語らせるままに、彼らに福音が伝えられます。

 ペンテコステの日に、弟子たちに聖霊が臨み、教会が誕生してから、神の救いの言葉は、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらには地の果てまで伝えられていきました。

 聖霊の力により、キリストの証人たちを通して、福音は強い影響力で全世界に広がり、この二千年間、歴史の中で、どんなむごい戦争が起こっても、また伝染病で死者が爆発的に増えても、あるいは災害によって社会が壊滅状態になっても、人々を立ち上がらせ、前進させ、再出発する力を授けてきました。神の救いの言葉、福音には力があるのです。

 私たちはそのためのキリストの証人として、立てられています。

 赤十字のキャッチコピーをご存知ですか?「救うを託されている」。この言葉の通り、今回のコロナウィルスでも、赤十字は多大な貢献をしてくれました。

 私たちは、キリストの十字架を負う教会として、別の意味で、救うを託されています。その使命に応えることが、教会の存在意義であり、向かうべき方向です。

 今日から礼拝を再開した私たちは、教会として再出発をしましょう。この名古屋の地に、愛知県に、救うを託されている教会として、聖霊によって生み出されたことを自覚して。

 17節からのヨエル書の預言は、すべての人に聖霊が注がれるということと同時に、厳然たる未来を伝えています。20「主の輝かしい日が来る」それは主の再臨の日、終末の日です。その時、世界のすべては更新されて、世界のすべての悪はさばかれ、終息させられ、神の御心が100%実現する世界が始まります。その時、21節「主の御名を呼び求める者はすべて救われる」。

 主の御名を呼び求めるには、主の御名を知る必要があります。主の御名を伝えてくれるキリストの証人が必要なのです。 聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そしてわたしの証人となる、と主イエスは言われます。私たちは救うを託されている、キリストの証人です。その召しに今、応答して、自分を神に献げていきましょう。

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