私の助けはどこから来るのか

詩篇121

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「ポストコロナ」という言葉が聞かれるようになりました。コロナウィルスが終わったあとの社会のことです。コロナ以前と比べてどう変わるのか。コロナが残した爪痕を、どう回復させていけば良いのか。教育、福祉現場、そしてすべての人に関わるのが、経済問題でしょう。

 経済不況と聞いて思い出すのは、リーマンショックです。10年以上前のことですが、当時、通っていた岐阜県の教会も、その影響を受けました。教会員やその家族のリストラ、ある外国人の兄弟は、仕事を失い、貧しさから、口にしてはいけないものを食して、病院で亡くなりました。社会では、経済破綻による自殺者が相次ぎました。ある時、教会の子どもたちを連れて公園へ遠足に出かけたら、練炭自殺を図った車が近くにあり、警察を呼び、子どもたちを避難させ、遠足気分なんて一気に吹っ飛びました。亡くなったのは30代くらいの男性でした。この男性の苦しみに、教会は何かが出来たのではないか、クリスチャンである自分は、宣教の責任を果たしてこなかったと、悔やみました。

 コロナウィルスによる経済への打撃は、リーマンショックどころではないと言われています。そもそも、ウィルス自体の解決もまだついていません。ワクチンも治療薬もこれからです。外国では感染の第二波も見られます。緊急事態宣言が解除されても、それがこの試練の底ではないのです。

 今日の説教題は「私の助けはどこから来るのか」。

 詩篇121篇は、交互に歌い合う、交唱と呼ばれる賛美です。表題には「都上りの歌」とあります。礼拝へ向かう道の途上、同じ信仰を持つ兄弟姉妹が、二手に分かれて、賛美を交わしたのです。

 私たちの教会ではそのようなことはあまりしませんが、対話だと考えてみたらどうでしょう。

 教会で、信仰者同士が集まって、会話が始まる。一人が話し、それに対して、別の人が答えていく。そういう交わりを詩篇121篇に見ることができます。

 どんな対話なのでしょう。

 1節「私は山に向かって目を上げる」。山とは何でしょう。道すがら見える山々のことかもしれませんが、ユダヤの文化の中で「山」とは、解決困難な問題を指すたとえです。イエスさまも、弟子たちに、信仰があれば、山を動かすこともできると言われました(マタイ17:20)。それは実際の山のことではなく、ユダヤ的な言い方で、大きな問題、ということです。

 信仰者同士の対話の始まりは「山」でした。ハレルヤでもなく、感謝、でもなく、問題から会話は始まったのです。

 私たちもそうかもしれません。教会で顔を合わせて、話題の最初のトピックは、神さまへの賛美ではなく、病気のこと、家族の心配、仕事の不調。しかし、信仰者の交わりは、そこで終わりません。話しながら、次第に、ともに神さまを見上げることへと引き上げられる。教会の交わりはそういうものであり、そうあるべきです。

 1節「私の助けはどこから来るのか」と語り始めた者に、もう一方が2節「私の助けは来る。天地を造られたお方から」と答えます。私たちの信じている神さまは、この世界を造られた方なんだから、大丈夫だよと励ますのです。

 詩篇121篇は、片方が一方的に相手に教えることはしていません。互いに語り合いながら、それぞれ神さまの素晴らしさを再発見し、それを分かち合いながら、一緒に信仰を高めていくのです。その対話の中で、何度も語られるのが「あなたを守る」という言葉。主は、私たちをどのように守ってくださるのでしょう。

 3節「あなたを守る方は、まどろむこともない」、4節「眠ることもない」。

 信仰者たちは思い出していました。かつて、イスラエルがエジプトで奴隷であったとき、神さまは、苦しんでいる彼らを導き出された。エジプト王に背いて、そこから脱出しようとした彼らを、主は「寝ずの番をして」イスラエルを守った。そう出エジプト記に書かれています。追手が迫る中、主は休む間なくイスラエルを守り、敵に襲われるその寸前で、海を二つに分けて、彼らを救出しました。

 同じ主が私たちの神なのだから、私たちの目の前にある山も、主が解決される。どのような危機が迫っても、出エジプトのみわざをなされた神が、同じように奇跡さえ起こして助けてくださる。そう彼らは語り合うのです。

 私たちの問題の山は、私たちをどこまでも追いかけて来るエジプト王のようなものかもしれません。あるいは、私たちの行く手を阻む海のようなものかもしれません。けれども、主はあなたを守る方。どのような危機からも私たちを守り、必要なら奇跡さえ起こして、助けてくださるのです。

 信仰者たちの対話は続きます。

 5節「主はあなたを守る方。あなたの右手を覆う陰」。「右の手」とは戦うときの利き腕のことです。「陰」は神の守りを表わしています。

 「私は山に向かって」と、解決困難な問題を話題にした人の、その問題とは、何かとの戦いだったのでしょうか。戦う彼のその腕を、主が守られる。どう戦えば良いのか、どこへ向かえば良いのか、戦いの戦略もすべて主が導かれる。だから安心して行って来なさいと、主は励まされるのです。

 私たちにも戦いがあります。病から守らなければならない人がいる。どう守れば良いのか、私たちは途方に暮れる。けれどもその病との戦いの中で、主は「わたしがあなたを守る」と言われます。仕事の戦いもあります。どう戦えば良いのか。主がその働きを、ご自身の力で覆ってくださいます。

 コロナウィルスはさまざまなものを壊していきました。ある人は自分の居場所を失い、また、人間関係が破綻し、保証を失い、経済は壊滅的です。その現実に向き合い、戦っていかなければならない中で、主は言われます、「あなたを守る、あなたの右手、あなたのするすべてのことをわたしの力で覆う」。

 しかもその守りは、24時間、7日間、途絶えることがありません。

 6節「昼も日があなたを打つことはなく、夜も月があなたを打つことはない」。昼も夜も、主は私たちを守ってくださいます。私たちの生活は、昼には昼の苦労があり、夜には夜の苦労があります。けれども主はその両方から守ってくださるのです。

 さらに7節「主はあなたのたましいを守られる」。前半で「すべてのわざわい」と言われる、いわゆる外側からの攻撃や問題だけでなく、私たちの心を主は守ってくださいます。

 解決困難な問題は、それに向き合う私たちの心を疲弊させます。実際以上に自分にはチカラがないと落胆し、逆に、実際以上に問題を大きく捉えてしまうこともある。そんな、私たちの弱い心を、主はご存知です。そして助けてくださいます。なぜなら主イエスも、人として、私たちの経験するあらゆる苦しみを味わい、人間の心の折れやすさを実感していらっしゃるからです。ヘブル人への手紙の記者は語ります、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。すべての点で、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折りにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4:15-16)。

 主の恵みと助けは、私たちの信仰を、あるべき位置へと引き上げるのです。

 「山」を見つめることから始まった信仰の対話は、「主はあなたを守る方」という力強い信仰の確信へと引き上げられていきました。

 そして8節「主はあなたを行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる」。日々の生活だけでなく、人生の始まりから終わりまで、ずっと主の守りがあるのだと告白して、「山」の話は終わります。「山」はまだあったでしょう。しかし、それを凌駕する神の守りがあるから、もう大丈夫なのだと、彼らは主にある平安で満たされるのです。

 イスラエルに住む人々の家にはメズーザーというものがあります。家の門の柱に、旧約聖書のみことばを刻んだものです。こんなみことばです。「聞け、イスラエルよ、主は私たちの神、主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私があなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい」(申命記6:4-9)。

 イスラエル人は、家を出るとき、また帰ってきたとき、メズーザーに触れながら、この詩篇121篇の8節を唱えます。そうやって、信仰の両面を心に刻むのです。信仰の両面とは、主が信仰者を守られることと、信仰者がその主を愛すること。じつに信仰生活とは、この二つが両輪のように組み合わされて、前進するのです。

 「ベン・ハー」という映画があります。主人公は、敬虔な信仰者で、いつも、このメズーザーに触れて家を出入りします。しかし、さまざまな試練に遭うなかで、次第に、わざとメズーザーを無視するようになるのです。

 私たちはときに、神がいないような、あるいは神に嫌がらせをされているような錯覚に陥ります。そして、この詩篇の作者のように「山」にばかり目を向けてしまうことがある。

 以前にも何度かお話ししましたが、私の、ずいぶん昔の経験です。金山にある、東海聖書神学塾で学んでいたことがありました。学び始めた頃、突然、経済的に行き詰まりました。神さまに人生を献げて、聖書を学ぼうと決断したのに、それが続けられなくなる状況に直面して、私は、つい「私の助けはどこから来るのか」と叫びました。その言葉は「助けなんかどこからも来やしない」という怒りから出たものでした。しかし、叫んだあとで、その言葉が詩篇121篇の言葉であることに気づきました。そして、その言葉の続きを思い出しました。「私の助けは主から来る」。半信半疑でしたが、ともかくそのみことばを信じようと決断しました。その結果、あり得ない方法で経済が満たされ、通い続けることができたのです。

 「ベン・ハー」の主人公も、最終的に、神が真実であることに気づかされ、信仰が回復します。

 もちろん、いつでも、すべてが自分の願い通りにはならないでしょう。別の結果へ導かれることもあります。けれども主は、信仰者の足をよろけさせず、ちゃんと歩み続けられるようにしてくださるのです。

 私たちの前に立ちはだかる「山」は何でしょう。その「山」に悩む私たちの助けはどこから来るのでしょう。

 助けは主から来る。天地を造られたお方から。主は私たちを行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

 私たちには、このような信仰の確信、神の守りという大きな保証があります。そして、そういう平安を与えられている者として、この恵みをもって互いに励まし合い、さらには、この良い知らせを社会に告げ知らせる責任も与えられているのです。詩篇121篇の作者は、神の守りを心の中に納めておくことなく、賛美として、また信仰の告白として、歴史に残しました。それゆえ私たちは今、そこから恵みを受け取ることができる。同じように私たちは、この恵みの良き知らせを、「私の助けはどこから来るのか」と悩む人々が増大する社会に向かって、「あなたの助けは主から来ます」と、語り伝える役目が与えられているのです。

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