危機のなかで

詩篇84

音声で聞きたい方はこちらを再生してください。

 ゴールデンウィーク、いえ、ステイホーム週間が終わりましたが、緊急事態宣言は延長され、そのままです。もしかすると、月末を待たずに解除されるかもしれませんが、どうでしょう。いずれにしても、コロナウィルス自体が、早く終息することを願います。

 まぁ、ある程度、落ちついても、以前のような生活に、すぐに戻れるわけではなさそうです。「新しい生活様式」というのが提唱されています。外出するときは必ずマスク着用。人とは距離を開ける。なるべくテレワーク、リモートワークで働く。

 こういった新しい生活様式は、それまで考えてもいなかった、オンライン会議などの便利な面を見いだせたと同時に、コロナウィルスとは別の問題も生み出しています。たとえば、テレワークによって、通勤時間が不要になったことで、時間のゆとりができ、過度の飲酒への警告が出されています。健康を守るために始めたことが、かえって、ウィルスとは別のところで健康被害をもたらしている。もっと深刻なのは子どもたちです。ある小児科医がこんなことを報告していました。外出自粛が始まってから、不眠や食欲不振、また泣き叫んだり、突然おねしょが始まる子どもの患者が増えている。

 コロナウィルスは、私たちの生活に、病気以外のものも、もたらしています。

 教会もその影響を受けています。集まって礼拝できない中で、オンライン礼拝の整備が急速に進んでいますが、そこに教会の優劣が生じているのです。それまでは、昔ながらに、集まって、賛美し、祈り、説教を聞き、交わりをしていました。そのとき注目されていた教会の良さとは、交わりの豊かさや説教の中味であり、どんな人が集まり、どんな集会が重んじられているかといったことで、人々は、自分に合う教会を見出していったのです。それが、戦後何十年も続けられて来た、教会のあり方でした。

 しかしここに来て、今、ある面で、教会の勝敗を決定するのは、いかにオンライン技術に長けているかということだ、とある牧師が言っていました。ある教会では、コロナが始まる前から配信をして、もうテレビ番組かと思うような配信をしています。いっぽうで、富田教会にみたいに、1800円のWEBマイクの前で声を張り上げながら一生懸命配信していても、画像が反転してしまうという教会もあるわけです。もっと言えば、配信すらできない教会もあり、CDに説教を録音して配布しているところもあります。そして、テレビ番組みたいな配信ができる教会は勝ち組で、CD配布の教会は負け組みたいな雰囲気になってくる。

 さらには牧師たちも、その流れに呑み込まれて、信仰とは別の次元で落ち込んだり、喜んだりしてしまうのです。

 教会生活も、礼拝を再開しても、「新しい礼拝様式」になっていくでしょう。昼食会もすぐにはできない。子どもイベントも、ジョイジョイキッズも、きっと無理でしょう。礼拝賛美も難しいかもしれません。長い時間、教会にいて、お互いにお喋りを楽しむことも避けるべきでしょう。それは私たちにとって、とても悲しいことです。

 しかし、神さまは、このコロナ禍のもと、教会がどう歩み、何を目標にするよう願っているのか。教会に連なる私たちを、神さまは、どう導こうとされているのか。

 詩篇84篇は、神殿での礼拝を切望している人の歌です。紀元前6世紀、南ユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされました。ダニエル書にも登場する、ネブカドネツァルというバビロニアの王は、エルサレムの神殿を破壊し、国民を捕囚民にして国外へ連れ去りました。それをバビロン捕囚と言いますが、詩篇84篇は、そのバビロン捕囚のときに、遠い外国へ連れ去られた人の歌です。

 いま私たちが集まって礼拝できないように、この人も、かつては当たり前のようにしていた、神殿での礼拝ができなくなってしまい、それを嘆くのです。皆で集まって礼拝していた日を懐かしく思い出しながら、礼拝したい、一緒に集まって賛美したいと願います。その願いを神に訴えた、嘆きと祈りがこの詩篇です。

 今日の説教題は「危機の中で」。

 バビロン捕囚は、神の民にとって、大きな危機でした。今の私たちも、コロナウィルスのパンデミックという危機の中に置かれています。それぞれの危機の中で、同じように、集まって礼拝することを奪われた者として、また同じように、信仰を持つ者として、私たちはどう歩み、何を目標に進めば良いのか、この詩を書いた信仰の先輩の告白を聞いてまいりましょう。

 1、2節。「万軍の主よ、あなたの住まいは、なんと慕わしいことでしょう。私のたましいは、主の大庭を恋い慕って、絶え入るばかりです」。詩人は、かつて、皆で神殿に行った日を思い出し、もう一度礼拝に行きたい、神殿に足を踏み入れたいと、ただただ懐かしみます。

 捕囚民となって、異教の外国の地に住み、信仰を持たないことが当たり前の社会に置かれて、なお一層、神殿の建物を心に思い描くのです。2節の「主の大庭」とは、私たち流に言えば、教会の講壇の手前の、椅子が並んでいるスペースのことです。そこにもう一度足を踏み入れたい。かつてはそこで共に賛美をした、祈りをささげた……と思い返しながら、でも今は神殿に行けないのだと、詩人は深く嘆きます。

 3節「雀さえも住みかを、燕もヒナを入れる巣をあなたの祭壇のところに得ます」。鳥は自由です。鳥は戦争も捕囚も関係なく、神殿に自由に飛んでいき、そこに住むことさえできる。なんと羨ましいことかと詩人は思います。

 詩人は神殿を愛し、神殿での礼拝を何よりも楽しみに生きていました。だから4節「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつも、あなたをほめたたえています」。神殿に住む人とは、そこで働く人のことです。4節を現代風に言い換えるなら、こうなるでしょうか。「なんて幸いなことでしょう、教会に住む牧師は。彼女はいつも主を賛美しています」。

 教会で集まれない今、皆さん、教会に住んでいる私のことを、羨ましいと思いますか?

 私は決して、幸いではありません。教会に住んでいて、幸せだと思っていたのは、ついこの間までのことでした。今は、かえって、教会に住んでいることで、日曜日になっても、この場所に誰も集まって来ないことが、逆に寂しさを募らせます。

 一人暮らしの私は、牧師館で誰に気兼ねすることもなく、賛美できます。実際しています。けれども、礼拝で、兄弟姉妹とともに心と声を合わせて賛美できる幸いに、勝るものはありません。

 ともに使徒信条を告白し、主の祈りを祈り、ともにみことばを聞き、富田教会での礼拝は、新しい永遠の神の国のリハーサルのようでした。そのリハーサルを体験しながら、いつか、完成された神の御国に立つ日を楽しみにしていました。しかし今、必ず週に一度味わっていたその喜びが、奪われています。

 詩人が羨んだ神殿で働く祭司たちも、神殿が破壊されて、そこから追い出されました。祭司も、信徒も、ともに、バビロン捕囚の危機に遭い、その中で、呻いていたのです。神殿がなんと慕わしいことか。そこでの礼拝を恋い慕って絶え入るばかりだ。

 そんな思いを神さまの前にぶちまけながら、詩人は、幸いの意味を見つめ直します。

 5節「なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり、心の中にシオンへの大路のある人は」。神殿で礼拝できないことを嘆き、祈っていた詩人は、その祈りの中で、目が開かれます。

 幸せなのは、神殿に足を踏み入れることではない。どこにいても、神さまから力を受けて、その力によって生きていける人こそ幸せなのだ。

「シオンへの大路」とは、神殿へ向かう道のことです。それが心にある人、つまり、実際に神殿に行けなくとも、神さまに出会う信仰の道がちゃんと心に備わっている人、そういう人が本当に幸いなのだと詩人は気づくのです。

 私たちは今、ステイホーム礼拝を続けています。日曜日ごとに教会へ来るのもある面、戦いだったかもしれません。それでも、教会に行くという習慣が私たちの信仰を支えて来たのではないでしょうか。そして教会で過ごす日曜日は、私たちに、信仰者としての安心感も与えてくれていました。

 それに比べてステイホーム礼拝は、わざわざ教会まで行く必要がないというメリットがある反面、教会に行く以上の戦いがあるかもしれません。場所が変わらないことで、日常生活と礼拝という切り替えが難しい。子どもたちを礼拝させることにも苦労していらっしゃるかもしれません。あるいは礼拝時間をスルーしてしまう誘惑も、ないわけではない。

 でも、そんな中で、とにもかくにも礼拝し続けることで、私たちの心の中に、シオンへの大路、つまり、神さまへの道が堅く築かれていくのです。そしてその道を通して、この苦難の生活を生きる力が与えられる。子どもたちも、親たちがこんな状況でも神を礼拝し続ける姿を見て、幼い心に、神への道が築かれていくのです。そして、神さまのチカラによって生きる者へと成長していきます。

 心にシオンへの大路のある人は、6節「涙の谷を過ぎるときも、そこを泉の湧く所とします」。

 「涙の谷」とは、神殿へ行く途中で通る、荒れ果てた土地のことです。歩くのに困難な場所でしたが、でもこれから神殿で神を礼拝するのだという喜びが、その荒れ地を泉に変えてしまう。そんなふうに、心にいつも神への道がある人は、試練を神さまの恵みを見出す場所に変えるのだと詩人は告白しています。

 さらに「初めの雨も、そこを大いなる祝福でおおいます」。苦しみの多い生活の上に主は恵みを注いで、人生に豊かな実りをもたらしてくださる。

 そうやって信仰者は、力から力へと進むのです。

 心にシオンへの大路のある、富田教会の兄弟姉妹たちが、コロナウィルスとステイホームという涙の谷を、泉の湧く所としてくれています。それぞれの動画や写真やイラストを集めた賛美動画が作成され、ステイホームwithジーザスの聖書通読が提案され、パンの会も今週からズームで再開されます。その背後に、こんな時期だからこそ、より一層お互いのため、教会のために祈ってくださっている兄弟姉妹がいる。神さまへの愛、そして互いに愛し合う思いが、こんなふうに試練の場を祝福の場に変えています。私たちは力から力へと進んでいます。

 詩人は神に告白します。10節「あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは神の家の門口に立ちたいのです」。「悪の天幕」と表現する、神を恐れぬ者たちの、愛と正義から離れた生き方が、詩人の住む社会では多数派でした。けれども彼は、たとい自分は少数派であっても聖書の神との関わりの中で生きていたいと言うのです。なぜなら、11節「まことに神である主は太陽、また盾。主は恵みと栄光を与え、誠実に歩む者に良いものを拒まれない」。主ご自身が、太陽となって自分の人生を照らし、また盾となって守ってくださるから。主が、誠実に歩む自分を見ていてくださって、良いものを拒まれないから。そう詩人は告白します。私たちも歌っている、「主はわれらの太陽」と、詩人は神を賛美するのです。

 詩人は、祈りの中で、神殿で礼拝ができないことを嘆いていましたが、やがて、たとい神殿に行けなくても、心が神に通じていることが大切であって、どこにいても、主が自分の太陽であり、盾であることには変わりがない、そう告白するに至ります。

 祖国がバビロニア帝国に滅ぼされ、神殿も破壊され、自分も捕囚民となるという危機の中で、彼は、これまでとは違う、信仰の目が開かれるのです。それは、神殿に行くことが信仰のすべてではなく、ある空間、ある領域を超えてもなお、主を礼拝することができるという、神の偉大さです。

 危機は、私たちにあらゆるものをもたらします。けれども私たちは、もたらされたものを受け入れるだけでなく、危機に対して、こちら側から、積極的に応答することもできる。

 イスラエルの神の民の応答のひとつは、悔い改めでした。彼らは、自分たちの国が滅びたのは、自分たちの信仰生活の堕落が原因だったと悟り、神の前でその罪を告白し、神に立ち返ろうと決断するのです。そして彼らは、真摯にみことばに向き合い始めました。その中で捕囚民たちは、シナゴグと呼ばれる、会堂礼拝を造り上げていったのです。それは神殿のように、いけにえをささげるのではなく、みことばを中心とした礼拝で、そこではまた、礼拝だけでなく、個人的な悩み相談、また日常生活におけるさまざまな問題が話し合われ、さらに子どもたちへの教育も行われました。シナゴグは世界の各地に建てられ、そこを拠点に、外国人たちにも宣教がなされました。シナゴグのおかげで、それまで聖書とはまったく無縁だった人たちが、信仰を与えられ、神の恵みに与る幸いを得たのです。これが神の民の、危機への積極的な応答でした。

 私たちは、このコロナウィルスという危機に、どう応答するのでしょう。

 今週はパンの会をzoomで行います。この試み自体が、危機への応答のひとつだと言えるかもしれません。また、その会の中で、それぞれの危機への応答、さらには教会としての危機への応答を分かち合えたらいいなぁとも思います。

 幸いなのは、これまでの日常を取り戻すことではなく、それを凌駕する、神の恵みの豊かさを、味わって生きることです。 

 詩人は「私のたましいは神殿を恋い慕って絶え入る」と歌い始めましたが、最後は「なんと幸いなことでしょう、あなたに信頼する人は」と、神さまにしっかり向き合って、心に深い平安を抱きました。

 幸いなのは、生活から試練がなくなることではなく、試練の中でも、神に信頼して生きていけることです。 そんな幸いを知っている私たちは、それを喜び、主に感謝し、また、それを知らない人たちにその福音を伝えるために、いま、それぞれのホームに置かれているのかもしれません。

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