エステル4:7~5:2
先々週くらいから、新型コロナウィルスの出どころについての報道が目につきます。これは自然発生の病ではなく、ウィルス研究所の管理ミスであり人災だとか、あるいはもっと過激に生物テロだという人もいます。真実は分かりません。病の源を知ることは、この病気を克服する上で有益かもしれませんが、憎悪を掻き立てる犯人探しは、分断を生むだけのような気もします。
キリスト教会においては、もう一段高い次元での犯人探しが始まっています。神学者たちが、コロナウィルスと神との関わりについて見解を発表し始めたのです。いずれも入って来る情報が英語なので、私の理解も不十分ですが。
東日本大震災のときもそうでした。なぜあんな酷い災害が起きたのか。神は何をしていたのか。そもそも神などいるのか。
当時、ある人々が、東日本大震災は不信仰な日本人への神からのさばきだと言いました。今回はさすがに、そのような見解を持つ人はいません。世界中のあらゆる国で、あらゆる世代の人々が、民族も宗教も関係なく、ウィルスにやられているからです。では何が語られているか。大まかに、二つの見解が示されています。
一つは、ウィルスによる苦しみも、人には簡単に理解できない、深い神のご計画のもとにあり、きっと何か意味がある、というものです。
もう一つは、ウィルスも自然災害も、神がこの天地を創造された時から地球に備わっていたもので、それらが時に人類を襲うのは神の御心ではなく、自然の摂理だという見解です。人類はそのような地球で生きていく中で、科学を発展させ、病や災害を少しずつ克服してきました。そこに神さまの恵み深い知恵が働いていたのです。今回も、これからワクチンが開発されていくでしょうが、そこに神のみわざが現わされるだろう、この見解はそのような考えへと辿り着きます。
いずれが真実なのか、分かりません。皆さんはそれぞれ、どう思われるでしょうか。私自身は、試練や苦しみに対して、簡単に答えを出さない、出してはいけないという思いを持っています。
でも、たった一つだけ、間違いなく真実だと言えることがあります。
それは、このような世界的な苦難の時代に、この私が、そしてあなたが、クリスチャンとして生きていることは、間違いなく、神の御心であり、神のご計画であるということです。
そして私たちは、神がなぜコロナウィルスの蔓延を許容しているのかを考えるよりも、ましてや、ウィルス感染拡大の犯人探しをするよりも、こんな状況の中で、自分がキリスト者とさせられているその意味を追求するべきです。
今日の説教題は「もしかすると、このような時のため」。
この言葉を突き付けられたのは、先週からお話している、エステル記の主人公、エステルです。
ユダヤ人の捕囚民の娘エステルは、ペルシャ王のお妃となり、育ての親モルデカイを宮殿の職員に任命しました。モルデカイは信仰に堅く立ち、神に背いて生きる不道徳な上司ハマンに、へつらうことを拒みます。そこまでが先週のお話でした。
その後、ハマンは、モルデカイの行為にひどく立腹し、モルデカイのみならず、モルデカイの仲間であるユダヤ人全員を大虐殺しようと目論むのです。王の側近中の側近であるハマンの言葉を王はすんなりと受け入れ、ペルシャ国内のユダヤ人を3:13「一日のうちに、若い者も年寄りも、子どもも女も、すべてのユダヤ人を根絶やしにし、殺害し、滅ぼし、彼らの家財をかすめ奪え」、そう命令を出しました。ホロコーストです。
この危機の中、モルデカイは、お妃になった自分の娘エステルに、世話役を通じて命じます。4:8「彼女が王のところに行って、自分の民族のために王からのあわれみを乞い求めるように、彼女に命じた」。けれどもエステルにとってそれは簡単に応じられることではありませんでした。法律では、王に呼ばれもしないのに会いに行く者は、死刑に処せられると定められていたからです。ただし王の温情によって金の笏を差し出された者は死刑を免れることができました。でも、エステルはその時、王からひと月もの間、声をかけて貰っていませんでした。そんな事情を訴えるエステルに、モルデカイは言います、4:14「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない」。あなたがお妃になったのは、ユダヤ人を救うためではないか、そうモルデカイは、彼女の人生に起こった不思議な導きを解釈して説き明かしたのです。
私たちも今、神さまから語られているのではないでしょうか。あなたが救われてキリスト者となったのは「もしすると、このような時のため」であったのではないか。私たちは、何を決断し、どう行動すれば良いのでしょう。エステルはどうしたのか、そこから学んでみましょう。
エステルは決して強い人ではありませんでした。私たちと同じような普通の人で、そして常識的な人でした。無謀にも法律をおかしてユダヤ人を救い出そうと試みても、その自分が死んでしまったら、結局、ユダヤ人も自分も滅びてしまう。それでは意味がない。
しかしモルデカイは、4:14「もしあなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びるだろう」と言うのです。脅しのようにも聞こえますが、原文のニュアンスは日本語訳と少し違います。元の意味は、もしもあなたが沈黙を守るなら、助けと救いがユダヤ人のために起こるだろうか?いや決して起きない。そしてあなたも、あなたの父の家もユダヤ人は全員滅びてしまう、という言葉です。
この苦しみに解決の道などない。でもたった一つだけ、きわめて可能性は低いけれども、救出への望みがある、それを手にしているのはあなただけなのだ、とモルデカイは言ったのです。そしてエステルに、自発的な決断を促しました。
私たちも、沈黙を貫きたいときがあります。
キリスト者として言うべきこと、行うべきこと、立ち上がることがある。それが見えてもいる。でも躊躇する。もちろん、私たちは命を失うような目に遭うことは稀です。けれども心が傷つくかもしれない。また孤独に追いやられるかもしれない。そういう痛みを予想して、沈黙を貫きたくなるときは、ないでしょうか。
でもそんな私たちに、主は言われるのです、「あなたがクリスチャンになったのは、じつに、このような時のためです」。
先週、このエステル記の話をしたときに、「ヘセド」という言葉をお伝えしました。神の恵みという意味の「ヘセド」という言葉が、宮殿の監督官がエステルに好感を持った言葉に、また王がエステルに好意を抱いた言葉に使用されている、それは、彼らのその思いの中に、神が働かれたからだと、お話ししました。
その神の働きは、エステル個人の幸いのためであると同時に、神を信じる、神の民ユダヤ人へのヘセドでもあります。神は、エステルの人生を通して、ご自分の民であるユダヤ人を救おうとご計画されたのです。神の恵みはエステルという信仰者を通して現わされることになる。
私たちも同じではないでしょうか。
私たちが救われたのは、私たちの幸いのためでもありますが、それだけではないのです。この世界のすべての人を愛する神の愛が、私たちを通して、現わされるため、具現化されるために、神は私たちをクリスチャンにしたのです。
神のヘセドは私たちを救いました。しかし同時に、私たちを救った神のヘセドは、この世界を救う、神のヘセドでもあります。
私たちがキリスト者であること。そして、エステルがお妃であったように、私たちが、親であること、夫であること、妻であること、祖父母であること、クリスチャンではない親の子どもであること、あの職場で働き、あの職務の責任があること、あの人の友人であること、特別な才能が与えられていること、社会で特別な責任を負っていること、さらに富田教会に連なっていること、愛知県民であること、日本で生きていること。それらは、神のヘセドであり、神の世界に対するヘセドを具現化させるための、私たちへの「もしかすると、このような時のため」という神のご計画かもしれません。
さて、エステルはモルデカイの言葉に決断を促されます。しかし彼女はやはり不安を抱えていました。そこで彼女は、信仰の仲間であるユダヤ人たちに、三日三晩断食するよう願うのです。旧約聖書において断食とは、祈りに専念するということでした。彼女はつまり、自分のために祈ってくださいと頼んだわけです。
自分には信仰の仲間の支援が大切だと自覚することは大切です。実際、人は皆、一人では信仰を貫いて生きることはできません。神はそれをよくご存じで、信仰共同体である教会をお造りになりました。
教会とは、「ひとつの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、ひとつの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶ」共同体です。人が救われてクリスチャンになるとは、このような教会のコミュニティーに加わることであり、もっと言えば、全世界のクリスチャンたちと、信仰の家族として繋がることでもあります。
ユダヤ人であるエステルが、たとえば王妃だということで難を逃れることができたとしても、他の神の民が苦しみを受けるのなら、彼女は彼らの苦しみをともに負うことになる。それが信仰の家族です。またエステルが悩みつつも、死を覚悟して王にユダヤ人救出を直談判しに行くなら、それもまた、神の民全体の葛藤です。
この繋がりは、祈りによって具現化されます。
私たちも今、祈りの連帯が必要です。「もしかすると、このような時のため」に与えられている、神さまからのミッションに、お互いが応じていけるように、祈りで支える。
いま多くのクリスチャンの医療関係者たちが、最前線で戦っています。彼らは「もしかすると、このような時のため」に召され、人々のために、労しているのです。
私たちも彼らと祈りで連帯できる。私たちも、彼らを祈りで支える共同体でありたいのです。
さてエステルは、三日間、断食して祈った後、決断して立ち上がります。一刻も早く王のもとへ行こうと急ぐのです。王は、エステルを死刑に処することなく、温情を示しました。エステルは王にユダヤ人虐殺の撤回を願い出て、それは受理されます。ペルシャでのホロコーストはエステルを通し回避されます。
ユダヤ人は20世紀にもホロコーストに遭いました。その時、「もしかすると、このような時のため」と語られた人は少なくなかったでしょう。その一人が、杉原千畝さん。
彼は、外務省の人間なのに、国の方針に逆らって、ユダヤ人を助けました。エステルは王の温情を受けましたが、杉原は、戦後、外務省を追われてしまいます。彼が名誉を回復できたのは、かなり高齢になってからのことでした。
そんな杉原でしたが、やはり、彼も、最初は葛藤しました。けれどもある日、エステルのように「もしかすると、このような時のため」という神の声を聞いたのです。それは彼が聖書を読んでいるときでした。読んでいたある箇所に目が留まります。哀歌2:11「私の目は涙でかすみ、はらわたはかき回され、肝は地に注ぎだされた。私の民の娘の破滅のために。幼子や乳飲み子が都の広場で衰え果てている」。それを読んだ時、たとい国に逆らってでも、ユダヤ人を助けなくてはならない、彼らを助けられるのは、領事館で責任を持つ自分だけなのだと、彼は悟りました。
そして21世紀。私たちは今、ホロコーストではありませんが、ウィルスによる、ある面、大虐殺のさなかに置かれています。私たちにも呼び掛けられています。「もしかすると、このような時のため」あなたはクリスチャンになったのではないか。その声が、具体的に、どのような行動へと私たちそれぞれを駆り立てるのか、それは、聖書を読む中で、祈る中で、そして互いに祈り合う中で、くっきりと見えてくるでしょう。
「もしかすると、このような時のため」あなたは。
その呼びかけに沈黙するなら、世界は変わりません。変化を少しでも生じさせる、それは私たちの決断にかかっています。
もちろん、私たちは王妃ではないし、領事館で責任ある地位に就いているわけでもありません。でも、実際、それ以上のものを私たちは持っているのです。私たちは神の子どもであり、天においても地においてもいっさいの権威を持つキリストがいつも一緒についている。そして互いのために祈り合える信仰の家族がいる。
今日も、少しの間、祈りましょう。神が自分に何を願っているのか。自分にとっての「もしかするとこのような時のため」とは何なのか。そして、世界で「このような時のため」に立ちあがって戦っているクリスチャンたちのために、祈りを献げましょう。
祈りましょう
神さま。コロナウィルスで苦しむ世界にいる私を、信仰の勇者として、どうぞお用いください。