(ヨハネ 19:28~37)
コロナウィルスが猛威を振るっています。アメリカでは病院のベッドが足りなくなり、 野外に、テントを設営してベッドを置いていると報道で見ました。国内でも、感染者数は日に日に増えて、もはや、どこででも感染し、誰でもウィルスを持ってしまうような状態 です。
こんな状況のもと、私たちは、不安を払拭できないでいる、のではないでしょうか。い つまでこの状態が続くのか。自分や家族もいつか感染してしまうのではないか。その不安 には、死への恐れも含まれています。
そんな中で、人間の悲しいさがですが、あからさまなヘイトも広がっています。コロナウィルスではなく、武漢ウィルスと言ったり、有名人の死に哀悼を示しつつ、彼は某国によって殺されたとネットで拡散する。WHOが非難され、世界のすべてが病原菌にさらさ れているのに、連帯ではなく分断が生じている。
私たちは今、不安ではなく、希望が欲しい。恐れではなく、安心が欲しい。分断ではなく平和が欲しい。悪の追求ではなく、互いに愛し合い、助け合いたい。死ではなく命が欲 しい。
でも、それらを簡単には手にできない状況が、毎日、報道されています。
ワーシップで「鹿のように」という歌を歌います。谷川の流れを慕う鹿のように、主よ、わが魂、あなたを慕う。これは詩篇 42 篇をもとに作られた賛美です。この詩を書いた詩人は、試練に見舞われていました。かつては信仰の仲間とともに、喜びあふれる礼拝をささげ、いきいきと暮らしていたのに、今はそれができない。祈っても、祈っても、何も変化がない。そんな自分を見て、神を知らない者たちが言うのです、「お前の神はどこにいる。 お前の神は何をしている」。その言葉が自分の骨を砕いてしまうのだと彼は嘆くのです。
詩人は希望を求め、安心を求め、平和を求め、愛を求め、命を求めていました。詩人は、 それらがすべて神のもとにあることを知っていました。彼は神に飢え渇いていました。雨のない季節に、野生の鹿が、渇きを癒やしたくて谷川のほとりに来るように、詩人は、神を慕いました。
病気は人から健康を奪うだけでなく、日常生活のささやかな幸せを奪います。さらには、人の存在自体を奪いかねない。自分がこの世からいなくなってしまうのではないか、死への恐れが不安を呼び覚まし、死への恐怖は突き詰めれば、人が背負っている罪悪感と孤独感に辿り着きます。それは神の領域です。
私たちは安心を求め、平和を求め、愛を求め、命を求めています。それは自覚していなくても、神に渇いているということです。
今日は、受難節の最後の日曜日、棕櫚の主日と呼ばれる日です。教会はこの日、キリストが十字架にかかるためにエルサレムに入られたことを記念します。キリストはエルサレムに入って5日後、十字架にはりつけにされました。そしてその十字架の上で「わたしは渇く」と言われました。
キリストの渇きは、私たちの渇きです。神から離れ、けれども神に造られたゆえに、心の奥底で神に渇く私たちの渇きを、キリストは私たちと一体となって、味わってくださいました。実際にはキリストは神の御子であるのだから、神とひとつであり、神に渇くはずなどないのに、キリストは、人を救うために、人の暗い現実をご自分の身に負われたのです。水が涸れてしまった谷川のような世界、そこで神を捨て、神と無関係に生きる私たちの罪を背負い、その罪の呻きを主イエスは口にされました、「わたしは渇く」。
詩篇42 篇の詩人が描いた鹿は、雨のない季節に、水を求めて川へ来るけれども、そこにも水がないのです。水がなくては、鹿は死んでしまいます。
私たちも神なき人生を歩むのなら、霊的には死んでいるのです。涸れた谷に水を求めるように、私たちは、渇きを癒やせないもののところへ行き、幸せになろうとする。しかし 神にしかその渇きは癒やせません。
キリストは渇く私たちの罪をすべて背負い、神なき人生を生きる私たちとひとつになって、身代わりの償いのために死に、私たちを救ってくださいました。そして、「完了した」、 私たちの救いを成し遂げたと宣言されました。
キリストの成し遂げた救いが、私たちにもたらしたものは、血と水です。キリストが十字架上で死んだあと、番をしていた兵士がキリストの体を突き刺しました。するとわき腹から血と水が流れ出たのです。ここに、キリストの死がもたらした、私たちの救いの意味 が示されています。
十字架上で死んだキリストの体から流れ出た血潮。血は、私たちに、神との絆を作りま した。
人が自分の造り主である神から離れ、神と無関係に生きること、それは神の前に大きな 罪です。その罪が、神から注がれる愛の流れを塞いで、私たちは神に渇きながらも、それが癒されない。そして孤独に陥ってしまう。どうしたら解決するのか。罪が償われなければなりません。その償いをキリストが身代わりに受けてくださった。それが十字架の死です。聖書は言います、「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」(ヘブル 9:22)。
キリストが、十字架の上ですべて、解決してくださいました。キリストが十字架上で流した血、それは、私たちの罪を赦す血です。キリストの血は私たちの罪を完全に溶かし、 私たちは神との間に何の妨げもなくなり、神と親子にさせられて、永遠に失われない絆が 結ばれました。
人生の試練や危機を乗り越える力は、試練の重さや大きさに左右されるのではなく、試 練を誰と共有できるかによって、変わって来るのではないでしょうか。しかしなかなか、 心を一つにして共有する相手を見出すのは難しいのです。たとい家族であっても、しばしば心がすれ違います。とくに病の中では、看病し、心配してくれる人が大勢いても、最終的には、一人で死んでいかなくてはなりません。感染症の場合はなおさら、隔離されてまったく孤独のうちに闘病し、死へ向かいます。
しかしキリストは十字架の上で、私たちの救いを成し遂げられたのです。
もう孤独は終わり、神と永遠に結ばれて、人が誰一人そばにいなくても、神が共におられます。
もしも私たちが病気に罹り、人から引き離されて闘病しなくてはいけなくなっても、そこに神がおられます。
もしも私たちが病気に罹り、感染源として人から責められ、不注意な人だと非難されても、そこに神はおられて、私たちを理解してくださいます。
もしも私たちが病気に罹り、医療が病状に追い付かずに死に向かうときでも、そこに神はおられて、私たちの人生を平安のうちに閉じてくださり、永遠の世界へと、手を取って導いてくださいます。感染病の遺体が隔離されたままだとしても、私たちの魂は、1秒も神から離れることなく、大いなる見守りの中で天国へ運ばれていくのです。
キリストの体から血と同時に流れたのは、水でした。
水は神のいのちです。
ヨハネの福音書で、水は、キリストにあって新しく造られたすべての人に与えられる、いのちの力を示しています。主イエスはある時、破綻した生活を続けて、世間から孤立し ていた女性に、こんなふうに語られました、「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧きでます」(4:14)。
神のいのちは、闇の中の光です。状況が真っ暗な中に置かれても、その闇に翻弄されることなく、神の光を灯し続けることができます。
感染が爆発的に拡大したイタリアから、一人の日本人宣教師が報告を日本に送ってくれました。それは、現地のイタリア人の医者が書いた文章で、宣教師の先生はそれを日本語に翻訳して、日本の教会に送ってくれたのです。その医者は 38 歳で、2週間前まで無神論者でした。親は教会に通っていましたが、親の信仰をどこかでバカにしていたそうです。
ところが 10 日前、コロナウィルスで医療崩壊寸前の彼の病院に、75 歳の牧師が入院しました。その牧師は、重い症状を抱えながらも、いつも聖書を持ち歩き、亡くなる人たちを見つけては、その手を握り、祈り続けたそうです。医療チームは、同僚が次々と亡くなり、 皆が精神的に限界を感じていました。そしてやがて、その牧師の語る聖書の話だけが、彼らの希望になっていったのです。無神論者のこのお医者さんも、いつしか、神に祈るようになっていました。牧師は、入院して1週間後に亡くなりました。その姿を見て、医者は、 自分もやがて死ぬかもしれないと感じました。が、彼は、その牧師がいま天国にいることを確信し、自分もやがては、天国に行くことを確信できるようになったのです。そして、 彼はこう述べてその文章を書き終えました、この苦難は願わなかったけれど、この苦難によって、神に帰ることができたことはとても嬉しい。
感染の爆発的拡大という闇に覆われたイタリアで、一人の牧師がただ神に向かい、神の恵みを他の患者や医療スタッフにシェアした信仰の姿勢は、小さいけれども、確かに闇の中の光でした。彼は、絶望的な場において、絶望的な病を背負いながらも、神のいのちに 生かされ、そのいのちは、死に行く人たちに永遠の希望をもたらし、無神論者の若い医者に、信仰の希望を与えました。
私たちも、これからどのような人生を辿るのか、分かりません。しかし、私たちが救われて神のいのちを抱いているなら、私たちの肉体が絶望の底に落とされても、なお、信仰の光は消えることはないのです。それだけでなく、周囲の人の闇に光を点じることさえできます。キリストが与えるいのちには圧倒的な力があるのです。
キリストは言われます、「完了した」。私たちの救いは成し遂げられました。
キリストのこの言葉は、十字架上で語られただけでなく、この聖書のみことばを聞く、 私たちそれぞれの人生の上にも語られます、「完了した」、あなたの救いは完全に成し遂げられました、そう主はそれぞれに宣言してくださるのです。
あなたの救いは成し遂げられた。キリストの身体から流れ出た血と水は、あなたのためである。
血はあなたを孤独から救い出し、あなたを神の子どもにし、いつも神とともにいる人生 へと導き入れる。水は、どんな闇の中を歩むときでも希望を抱き、希望を伝える歩みへと、 あなたの人生を造り変える。
これがまさに福音です。
キリストの十字架と復活による救い、血と水による救いが、あなたのために為され、あなたの目の前に差し出されている。これが福音、神からの素晴らしい知らせなのです。
この救いを、あなたはちゃんと受け取っていますか。ちゃんと受け取るなら、血も水も、あなたのものになります。しかし曖昧にするなら、人生は渇きを覚えたままです。
十字架は人々を二つに分けます。イエスに反対する者か、イエスを信じる者か。福音を受け入れるのか、あるいは退けるのか。中立はありません。イエスかノーか、どちらかを、私たちは神に申し上げなくてはならない。
イエスと答えるのなら、あなたの救いは完了しました。そして、キリストの血があなたの心を覆い、罪は赦されて、神との永遠の絆が結ばれます。またキリストのいのちの水があなたの心から溢れ出て、揺り動かされない希望が尽きることなく、またこの暗い世界に、 神しか与えることのできない光を灯していく存在とさせられるのです。