真実に生かされ、真実に生きる

マタイ 5:33~37

音声で聞きたい方はこちらを再生してください。

コロナウィルスがまだまだ収まりそうにありません。

この感染症が出始めの頃、ニセモノの予防法や、偽りの感染情報が、ネットを駆け巡りました。私も引っかかり、皆さんにもお伝えして、大失敗しましたが。

ウィルスそのものに関する偽りの情報が落ち着いた後、今度はトイレットペーパーがなくなるという情報が出てきて、その情報に踊らされて、いま、トイレットペーパーもティ ッシュペーパーもかなりの品薄です。この情報の源は、SNSだが、それを拡散したのはテレビだと、先日、新聞に載っていました。まぁしかし、こんな状況のもと、その新聞の記事すらも、真実かどうか、分かったものではありません。

言葉が飛び交う時代です。SNSで。公共の電波で。印刷物で。話し言葉にしろ、文字にしろ、言葉は社会を駆け巡ります。とても便利です。しかしその情報がどこまで真実なのかを、受け取り側が、しっかり判断しなければならない時代でもある。これはとても悲しいことだと思いませんか。

神は人間に言葉を与えました。神さまが人をお造りになるとき、人にだけ特別に、神のかたちを備えて創造したと聖書にあります。その神は、言葉によってご自分を現わす神で す。キリスト教の礼拝は言葉で始まり、言葉で終わります。お寺に行っても、神社に行っ ても、お経の本も渡されず、祝詞の本も渡されません。けれどもキリスト教の神は、聖書のみことばを通して、ご自分の考えを私たちに明確に示されます。

私たちは、この神のかたちに造られて、言葉を語る存在とされました。礼拝は、神の言葉である聖書を聞き、賛美も言葉で神をほめたたえ、言葉ではっきり祈りをささげます。 それがクリスチャンの礼拝なのです。さらに神は、私たちが隣人を愛し、互いに愛し合うためにも、言葉を与えられました。

キリスト教は言葉を大切にする宗教です。

旧約聖書には、契約や誓いの場面がたくさん出てきます。神と信仰者が契約を結んで、 人は神の民となり、神は民の神となる。人と人の間においても、大切なことは誓いを立てて約束をする。そこに否定的なニュアンスはありません。それどころか、契約や誓いを重 んじています。

そのような文化の中から誕生したのが、私たちの信じるキリスト教です。ですから教会 生活には、誓いをする場面がたくさんあります。結婚式だけでなく、洗礼式のとき、教会への入会式のとき、私たちは誓いをします。役員の任命式も、ある面で、教会と役員との契約の式だと言えるでしょう。私は牧師になるときも、教団総会において、誓いをさせら れました。

にも拘わらず、イエスさまは今日の聖書箇所において、おっしゃいます、34 節「わたし はあなたがたに言います。決して誓ってはいけません」。これはどういうことなのでしょう。

イエスさまは誓ってはいけないと言われましたが、そのイエスさまご自身が、じつは、 十字架刑に処せられるかどうか裁判を受けたときに、誓っておられます。総督ピラトが、 神にかけておまえは神の子かと尋ねたとき、それに同意したのです(マタイ 26:63~64)。誓うことが大きな罪であるなら、こんなことはなさらなかったはず。それに、私たちは教会で誓いを立てるたびに、神に背いていることになります。「誓ってはならない」、イエスさまがおっしゃった、その言葉の真意はどこにあるのでしょう。

イエスさまの活動していた1世紀のユダヤ社会では、「誓い」が日常的に行われていまし た。ユダヤ人は聖書信仰に生きる民族です。イエスさまが 33 節でおっしゃっている「偽っ て誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ」という言葉も旧約聖書の伝道者 の書(5:4)にある言葉です。ユダヤ人は聖書のこのような伝承を大切にし、何世代にもわたって、契約や誓いを交わしてきました。ところが、契約や誓いといった、言葉を重んじ る文化に反して、人間の心のほうは、時代を追うごとに、浅く軽くなっていった。そして 軽々しく誓いを行い、誓いを悪用し、破り、取り消すなどの行為が横行するようになって しまったのです。

神は私たち人間に言葉を与えましたが、同時に自由意志も与えました。私たちはロボットのように、教科書通りに喋る存在ではなく、考えて言葉を語り、言葉を聞いて考えます。 人の言葉は、人の心から生み出され、心の在り方によって使い方が定められるのです。

誓いは、相手への誠実と愛を示すために行います。結婚式はもちろん、洗礼や牧師任職の誓いは神さまへの誠実と愛を表明し、転入会のときには教会員の皆さんにも誓いをして 貰っていますが、それはこの人を受け入れて、祈りと交わりをもって共に生きていきます、 という、転入者への愛を示す行為です。誓いとは、相手への愛であり、誠実さです。

その誓いが軽々しく破られていく原因は、ただひとつ、人の心から、神を敬う思いが失 せ、また隣人を大切にしようという気持ちがなくなったから。

いまの私たちが住む社会も同じです。偽りの情報が次々に飛び交うのは、SNSが問題 なのでも、テレビが問題なのでもない。人の心が、人間を大切にしようと思わなくなったからでしょう。

私たちはこの時代をどうすれば良いのか。 イエスさまの時代の人々はどうしたのでしょう。 ユダヤ社会はもともと、信仰が土台となって築かれたコミュニティーです。ですから、もう一度、ちゃんと、神への信仰と人への愛をただそうと、そういう方向に向かえば良か ったのですが、残念なことにそうはならなかった。逆に、誓いを破っても、それを責めら れなくても済むような方法を作りました。たとえば、神殿にかけて誓った場合、それが果 たされなくても、神殿にある黄金にかけて誓ったのでないなら果たさなくても良い、とか。 または、祭壇にかけて誓った場合に、祭壇の上のささげ物にかけて誓ったのでないなら、 その誓いが反故にされても文句を言ってはいけない、とか。まるで、裁判で法の抜け道を見つけて、有罪を無罪にするような、そんなやり方です。そんなふうに、天にかけて、地にかけて、エルサレムにかけて、自分の頭にかけて、と、人は偽りの誓いで互いを欺いて いました。

しかしイエスさまは言われるのです。天は神のおられるところである。地は神の足台である。エルサレムは神の都である。あなたの頭もあなたのものではない、神のものである。 あなたが何を指して誓ったとしても、その言葉はすべて、神の前に置かれた言葉なのだ。 そうイエスさまはハッキリ言われます。

イエスさまは、誓いによって人を欺くのはもうやめようよ、と言いたかったのです。それが「誓ってはならない」の真の意味です。

人の言葉は、誓うにしろ、誓わないにしろ、すべて神さまの前に置かれます。神はすべてを聞いておられるのです。ですから、その神を重んじて、誓っても誓わなくても、いつ でも、だれに対しても、どんな場合でも、あなたは真実だけを語りなさいと、イエスさまは伝えたかった。ただひたすら、神に対しても、人に対しても、誠実に、愛をもって向き 合っていく。そのコミュニケーションを支えるために、言葉を語る。それが、神が人に言葉を与えた目的です。

わざわざ誓うのは、普段の言葉が真実ではないことの裏返しです。だったら「決して誓 ってはいけません」と主イエスはおっしゃいます。普段の言葉も真実でなくてはならない。 ではどう語るのか。イエスは言われます、37 節「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いい え』としなさい」。天とか地とか神殿とか、何かの権威を持ち出して仰々しく誓ったりせず、 普通に、自分がいま出来ること、いま理解できること、責任を取れることについて、誠実に相手に伝え、そしてそれを実行できるよう、全力を尽くす。それが神に祝福される、真実な関係性です。

先ほど、誓いは相手への誠実と愛を示すためにするものだと言いましたが、実際のとこ ろ、私たちは、誓いの一種である契約において、自分を守ることだけを考えて行うのではないでしょうか。たとえば労働契約。私たちは、会社のために頑張りますという思いでサ インをしますか。あるいは、雇用や待遇の保証を求めてサインをするでしょうか。もちろん、実際には、両方ともが必要です。でもなかなか私たちは、相手に重きを置くことができない。そんな私たちは、神さまによって、心を造り変えていただく必要があります。し かしその神さまに対してさえも、スパッと真実に、誠実に向き合い続けることのできない 私たちです。

キリスト教のお祈りは「アーメン」で終わります。「アーメン」とは真実という意味です。 「いま祈ったことは真実です」という思いを込めて私たちは「アーメン」と言います。け れども実際、私たちは、神に対して祈ったことを、どれほど不履行にしているでしょう。

そんな弱さをまとう私たちの大先輩が、イエスさまの弟子であったペテロです。

私たちはクリスチャンになる時、イエスを自分の救い主として認め、十字架と復活の救いを受け入れる告白をします。その告白を神が聞き入れて、洗礼へと導かれていくのです。 そうやって、罪が赦され、神の子どもとなり、この世界でキリストとともに、神の愛を広げる使命に与ります。

ペテロもある時、イエスさまの前で、あなたこそ自分の救い主だと告白しました。イエスさまはその信仰告白を受け入れ、彼をクリスチャンと認めました。それだけでなく、イエスさまもペテロに誓ったのです。「あなたは岩です。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」(16:18)。つまり、教会を建て上げる働きにあなたを任命すると、イエスさまはペテロに誓いました。

イエスさまに従っていったペテロは、ある日、自分もイエスさまに誓いを立てます。それは、イエスさまが権力者たちに狙われて、命が危うくなってきた日のことでした。ペテロは、自分はイエスさまと一緒に死ぬことになっても決してイエスさまから離れません、と誓います。しかし、それから 24 時間も経たないうちに、ペテロは、イエスさまが逮捕された姿を目の当たりにすると、自分も捕まってしまうのを恐れて、その誓いを破ります。 彼は、人に「あなたはイエスの仲間ですね」と問われると、「そんな人は知らない」と言っ て、イエスさまを裏切ったのです。

ペテロは誓いを破りました。しかしイエスさまは、このペテロの誓い破りをご自分の身に引き受けて、十字架にかかってくださったのです。ペテロの罪をすべて背負って、イエ スさまは十字架上で、身代わりのさばきを受けてくださいました。

十字架の死から三日後、イエスさまは復活され、ペテロのもとへ赴きました。ペテロは イエスさまに合わす顔がなかったのですが、イエスさまはペテロにおっしゃいました、「わ たしの羊を牧しなさい」(ヨハネ 21:16)。イエスさまは、ペテロが信仰の告白をしたときに、誓って与えた、教会を建て上げる使命を、再び授け直してくださったのです。

イエスさまは、誓いを破ったペテロに対して、変わらずに誠実を貫いてくださいました。 イエスさまの真実は、私たちのあやまちや失敗によって左右されることはありません。どんなあやまちも、どんな失敗も、それを超えてなお、イエスさまの誓いは有効なのです。

このイエスさまの真実の中で、ペテロは立ち直り、やり直すことができました。そして、 多くの人を救いに導き、教会を建て上げ、さらには、神のみことばである聖書を書く特権にまで与かったのです。誓いを破り、言葉による罪をおかしたペテロが、永遠に変わらない神の言葉の書き手とさせられました。それはひとえに神さまの変わらない真実のゆえであり、ペテロもまた、その神の真実に応答したからです。

私たちもペテロのように、信仰を告白し、クリスチャンにさせられました。神はその時、 私たちを永遠に神の子どもとし、見放すことなく、救いを取り上げることはないと誓ってくださいました。私たちのほうも、洗礼を受けたとき、神の前に、誓いをしました。けれども私たちは、その誓いに相応しくない言動に、しばしば陥ってしまいます。けれども神さまは、私たちがクリスチャンになった時の誓いを決して反故にはされません。私たちをそれでもクリスチャンとして認め、救いから外すこともなく、永遠に愛し、私たちを神の子どもとして大切にしてくださり、また仲間として世界に遣わしてくださいます。私たちは不真実であっても、神は真実なのです。私たちはその真実によって、信仰の歩みをまっとうできます。

私たちは、神に対して、また人に対して、真実に生きられない弱さをしばしば覚えます。 相手を愛する愛による言葉ではなく、自分を守る言葉のほうが数多く、語ったことの責任も取れないことがしばしばです。謝罪よりも言い訳が多い。いま私たちは、そんな自分自身の姿を素直に認め、まっすぐ、十字架のもとへ行きましょう。そこで主は、変わることのない真実で、私たちに赦しを宣言してくださいます。私たちはその真実な言葉に「はい。 ありがとうございます」と受け取れば良い。そして、死から復活された主を見上げ、いのちの輝きのない私の言葉、私の心、私の態度が、真実なものへとよみがえる約束を思い出し、希望を受けとる。その希望を手に、私たちは、キリストのみことばに従うのです。誓う言葉も、誓わない言葉も、すべての言葉が真実であるように努める。私の心が真実であることを求め続ける。私の言葉が、神さまへの愛と隣人との誠実なコミュニケーションを つくるものであるよう願う。

主は真実な方です。必ず、私たちをそのようにしてくださいます。

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