イエスが語る、性と結婚

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今日の聖書箇所の冒頭、27 節で最初に出てくる言葉は「姦淫」です。古めかしい言葉で すが、意味、分かりますか?

かつて「強姦罪」と言われた刑法の罪名は、いまは「強制性交罪」に変わりました。調 べてみると、強姦罪の定義は「強制的に女子を姦淫すること」とあります。でも罪名が変 わって、その定義もより具体的になりました。まぁその時点で、姦淫という言葉も、死語 になったと言えるでしょう。

「姦淫」とは何でしょう。旧約聖書の申命記に、姦淫の例が列挙されています。そこに 書かれてあるのは、結婚の契約以外の場で行われた性的関係は姦淫の罪であって厳しく罰 せられるべきである。そして、結婚前の恋愛関係にある男女が性的な関係を持った場合は、 必ず結婚しなさいとも書かれてあります。

しかし残念なことに、その旧約聖書の中で、聖書の示す「姦淫してはならない」をちゃ んと実行しているロールモデルを見出すことはきわめて困難です。

神さまが示す結婚の在り方は、天地創造の物語の中で明確に語られています。一人の男 と一人の女が神によって結び合わされ、二人は一体、ひとつの身体になる。しかしその後、 人は神の価値観から離れ、信仰を持つ者でさえ、神を信じていない人々の文化に影響され て、一夫多妻を採用し、売春婦のもとに通い、性と結婚に関する教えは、踏みにじられて いきました。聖書がリスペクトする信仰の勇者ダビデさえも、複数の妻がいたのです。

「姦淫してはならない」という教えは、先週お話しした「殺してはならない」と同様、 十戒の中のひとつです。人々は十戒を重んじていました。けれども、一夫多妻だったり、この教えを守る上での土台が、完全に崩壊していたのです。

古今東西、性への関心が0%の時代や文化はありません。しかしその矛先は、時代により、文化により変化します。 現代の性の問題と言えば、やはりLGBTQではないでしょうか。この問題について、私は、神学校在学中、キリスト教倫理という授業でみっちり学びました。倫理学の先生は この分野にも精通し、あちこちの教会やキリスト教主義学校などで講演をしている方でし た。授業の中で、同性愛について、皆さんはどう考えていますかと問われ、私は、当時、 所属していた教会の牧師から教えられていた通りの考え方を伝えました。すなわち、人間 の同性愛的傾向は認めるべきだ。しかし、同性愛の行為は認められない、それは罪である、 そう発言したのです。すると先生は、静かに、私に質問を返されました、「ということは、 昭江さんは、同性愛の方々を認めるけれど、その人たちが、愛する人と性的な交わり持て なくても構わない、と、そういうふうに考えているのね?」私は、言葉に詰まってしまい ました。

皆さんはこの問題について、どう考えますか。

授業の中でLGBTQに関する学びは続き、とくに、教会とLGBTQとの関わりにつ いて、文献を読み、またそれをテーマにした映画を見たりしました。先生は、LGBTQ が良いのか悪いのか、決して答えを言いませんでした。学生の半数以上が、LGBTQは 絶対ダメだという意見を主張する中、私は釈然としない思いで授業を受け続けました。け れども当時はまだ、その学びは机上の空論だったのです。

しかし牧師になって富田教会に赴任した 2014 年、メディアが一斉にLGBTQについて報道するようになり、誰もがLGBTQという言葉を認知するようになりました。そして それ以来、LGBTQは、今も、世界の国々で、課題であり続けています。

2千年前のユダヤの国でも、性の問題は人々の関心事でした。彼らの話題の中心は、十 戒の「姦淫してはならない」とは具体的にどういうことで、どうしたらそれを守れるのか、 という点でした。律法学者やパリサイ人といった宗教学者たちは、いろいろ研究し、議論 し、答えを探しました。

当時、結婚外の性的関係のすべてが「姦淫」とは考えられていませんでした。ユダヤ人 男性が、売春婦や独身女性と関係を持った場合は「姦淫」だとは見なされなかったのです。 さらに、人妻と関係を持った場合でも、その女性の夫が外国人の場合は「姦淫」だと見な されませんでした。夫が、自分と同じユダヤ人である場合にのみ、「姦淫」だとされたので す。つまり姦淫とは、ユダヤ人男性から妻を奪う「盗み」の罪であり、自分の妻に対する 不貞だとは考えていなかったのです。

いっぽう既婚女性は、いかなる相手であれ、結婚外の性的関係を持ったら姦淫とされま した。その背景には、女性は妊娠する存在なので、家系に他の男性の血筋が入ってしまう ことを避けようとした、そういうこともあったようです。

ですから当時の社会通念では、「姦淫してはならない」という教えは女性が従うべき教えであって、男性はその女性の姦淫の相手になってしまわないように気を付けなくてはならないと、そう捉えられていました。まぁけれども、その、姦淫の相手にならないようにする、というのも、男性たちにとっては簡単ではなかったようで、それで、宗教学者たちは、考え、議論し、人々に教えを施していた。彼らは教えたのです。女は自分たちを誘惑して しまう危険な存在だ。女を見るとあらぬ思いに翻弄される。女は見ないほうが良い。女が 近づいて来るのが分かったら、すぐに目をつぶりなさい。目をつぶって歩きなさい。この 教えを守って、転んで怪我をする男性が後を絶たなかったと言われています。

そのような時代に、神のことばを伝えたイエスさまは、「姦淫してはならない」という教 えの本当の意義を取り戻そうとされました。主イエスは、目をつぶって、女性を見ないよ うにして、転んで怪我をする男性たちに語られます、29 節「もし右の目があなたをつまず かせるなら(それは転ぶという意味ではなく、姦淫を犯させるという意味ですが)、えぐり 出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうが(つ まり神のさばきに遭わないほうが)よいのです」。「姦淫してはならない」を守るために目 をつぶって歩こうと言うなら、いっそのこと、その目をえぐり出せと、イエスさまは極端 なことをおっしゃいます。

イエスさまは伝えたかったのです。たとい目をえぐり出したとしても、姦淫する者はき っと姦淫する。目が姦淫を犯させるのではない。では何が罪を犯させるのか。手だろうか。 だったらその手を切り捨てなさいと主イエスはおっしゃいます。しかし手を切ったとして も、姦淫する者は、片方だけになった手で、きっと姦淫をするのです。

このようにおっしゃって、イエスさまは、女性の姿が姦淫という罪を引き出すのではな いと、はっきり宣言されました。

これは現代にも通じる話ではないでしょうか。セカンドレイプという言葉があります。 女性が性被害に遭うと、露出の多い服装をしていたからだとか、女性一人で人通りのない 場所を歩いたからだとか、あるいは生活態度がだらしなかったからだとか、被害者である のに、被害を受けたほうがあやまちを犯したかのような言われ方がなされる。これは、当 時の律法学者やパリサイ人たちが持っていた考え方と同じです。イエスはこれを違うと言 われます。

イエスさまは言われます、28 節「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに 姦淫を犯したのです」。

「情欲」という言葉は、もともと「切望する、待ち焦がれる」という意味で、情欲その ものに問題はありません。性的欲求は罪ではないのです。性は人間にとって基本的なこと で、とても大切なものです。

問題なのは、情欲を抱いた上で女性を見る、ということです。この「見る」とは、意識 してじーっと見るという意味で、目に飛びこんでくる、という意味とは違います。普通に 生活していても、しばしば、性的な魅力や性的な情報が目に飛び込んできて、ドキッとさ せられることはある。そんなことをイエスさまは「姦淫だ」とはおっしゃいません。

問題なのは、そこにいる人を、性的なモノとして、自分の欲求を満たす対象としてだけ、 凝視するということです。女性であれ、男性であれ、人は皆、性的機能を神から備えられ た尊い存在です。そして、その性的機能は、その人の人格と切り離すことはできません。 なのに、人はしばしば異性を、自分の性的欲求を満たす道具として見てしまう。その心が問題なのだとイエスはおっしゃるのです。そのような考え方が、「姦淫してはならない」という教えを破ることになるのだと、そう言われます。

「情欲を抱いて人を見る」例として挙げられる一つが、創世記に出てくるポティファルの妻でしょう。エジプトの王宮で働く夫を持つ彼女は、家に連れて来られた、若い男奴隷 ヨセフを、性的な欲求を満たす道具として値踏みしました。彼女の目にヨセフは、「顔立ち も美しく、体格も良かった」。そして彼女はヨセフに「私と一緒に寝ましょう」と要求しま す。ヨセフは断りますが、彼女はヨセフの衣服に掴みかかって欲望を果たそうと試みます。

彼女は、夫を愛していたのにヨセフの魅力が目に飛び込んで来て、セクハラを働くこと になってしまったワケではないのです。彼女自身の心が、若い男性によって自分の性的な 欲求を満たしたいという考えに支配されていて、それが行為となって表に現れたのです。

とはいえ、ポティファルの妻が、当時のエジプトで、特別悪い人間であったというわけ ではないでしょう。当時の文化と価値観では、夫がいても、ひそやかに、奴隷の男の子と 関係を持つというもあり得ないことではなかった。その価値観が、彼女の心を形作ってし まったのです。

私たちはどうでしょう。もちろん、クリスチャンとして、不倫はダメ、セクハラは当然 ダメと分かっていますが、たとえば恋愛に関して、異性に関してだけは、なぜか隣人愛を 適用できないということはないでしょうか。

日本社会の性的文化は、神の前に受け入れられるようなものではありません。芸能人を性的な表現で売り出し、その需要もある。私たちはある面、そういう風潮に慣れてしまっています。また、恋愛や結婚の話をするとき、私たちは人の価値というものを、人格から切り離して、外見や収入といった部分だけを見つめ、そして、自分にとって、果たしてこ の人はメリットをもたらすのか、そうではないのか、その人の身体も心も人生もといった、 全人格的な関わりを持つことを考えず、自分の幸せ実現のための、便利な道具のような関 わりを持とうとする、ことはないですか。

私たちはそのような文化の影響を強く受けて生きています。ですから、恋愛や結婚とい った領域においても、人と良い関係を築く心を、神さまによって、新しく造っていただく 必要があるのです。心が聖霊に支配されているなら、人と関わるとき、見る目が変わりま す。性的な魅力も、自分の欲望を満たす道具ではなく、神さまがその人に与えた、人生の 祝福としての性だと捉え、神の創造と愛をほめたたえるようにされるのです。

「姦淫してはならない」という教えは、単に不倫行為に及ばないということだけでなく、 人を、神に造られた尊い存在としてリスペクトするということです。もちろんその中に、 相手の性的な機能を尊ぶということも含まれます。つまり、「姦淫してはならない」という 教えを生きることは、究極的には、相手を超えて、神と自分との関係に繋がっていくので す。

私たちに性が与えられていることは、神さまの祝福です。そして性と人格とは深く結び ついています。相手の人格の尊厳を守ることは、その人の性の尊厳をも守ることです。そ こに男女差別など生じるはずがありません。そして、そのリスペクトの中で、結婚という 深い交わりが生まれます。

「姦淫してはならない」と関連付けて、イエスさまが次に語られたのは離婚問題です。

イエスさまが活動していた当時、ユダヤ社会では、男性だけが離婚する権利があり、女 性にはありませんでした。かといって無秩序に妻を捨てることはできません。一応、彼ら は聖書の信仰に生きていましたから。けれども、結婚生活はいつでも順風満帆というわけ にはいかない。それは一般人も、宗教学者も同じです。学者たちは、離婚を言い渡す条件 を考え出し、人々に教えました。たとえば、旧約聖書の続編と呼ばれるシラ書には「妻が おまえの指図に従わないなら、彼女と縁を切れ」と書いてあります。またもっと驚くべき 教えですが、パリサイ人は「妻が、料理が下手であるなら、それは離婚の理由になる」と 教えました。

残念なことに、彼らは聖書を研究する学者であったにもかかわらず、離婚理由の研究に は励みましたが、どうしたら良い結婚生活を築けるかについては、探究しなかったのです。

そんな社会に生きていた人々に対して、イエスさまは、離婚とは結婚の契約を無視する ことであり、それは、信仰者が神さまとの契約を破って偶像礼拝をすることと同じくらい 重い罪だと言われます。それが 32 節にある、離縁することは姦淫である、という言葉の意 味するところです。

もちろん聖書の神は、ただ律法的に離婚を禁じてはいません。旧約聖書に離婚の規定が 語られているのは、結婚生活を続けることで、とくに弱者であった女性たちを、苦しみか ら救済するためでした。

けれどもそれは例外的な措置です。イエスさまは、別の箇所で、このようにおっしゃっ ています、「……創造者ははじめの時から男と女に人を創造されました。そして、それゆえ、 男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。ですから、彼らはもはやふた りではなく、一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離しては なりません」。(マタイ 19:4-6)。

結婚は、創造者である神さまの意志のもとにあります。人は自分で決断したように思っ ても、やはりそこに神の御心が働いていました。自分の願い通りに結婚して、自分の願い 通りに離婚するという考え方が、「姦淫してはならない」という教えに反しています。人は、 神が結び合わせたものを尊ばなくてはならないのです。

それでもなお、離婚せざるを得ない状況も出て来るかもしれません。しかしその時も、 一人で、あるいは夫婦で話し合って決断するのではなく、神さまの願い、神さまの導きを 重んじて、決断していくべきなのです。結婚は神さまが始めたものなので、終了するとき にも、神さまの了解が必要なのだと心に留めるべきです。

さて、聖書箇所のテーマからは少し外れますが、せっかくの性に関わるメッセージなの で、もうちょっとお話ししましょう。

冒頭で話した、LGBTQ。私たちはどう考えるべきなのでしょうか。教会以外の場で、 この話題がのぼることもあるかもしれません。また学校では、LGBTQの教育が為され ていく雰囲気があります。子どもたちにも関わってくる事柄です。

私は牧師になって以来、ずっと、LGBTQをどう考えるべきか、自分の課題にしてさ まざまな本を読みましたが、答えを見つけることはできませんでした。ところがそんな私 に、助けが訪れました。昨年、名古屋で開催された超教派の牧師会議に、神学校の倫理の 先生が講演者として招かれたのです。

私はじつは主催者チームの一員で、先生の接待役兼講演会の司会者でした。昼食時間、 「講演会の打ち合わせがあるから」と理由づけて、先生と密室に二人きりになり、この件 について「先生、教えてください」と泣きついたのです。先生は、私が神学校を卒業して から、なお一層、LGBTQについて各地で講演をしていました。

先生はおっしゃいました、「ある牧師たちは聖書はLGBTQを認めていると解釈するし、 また別の牧師たちはそうではないと解釈する。私は講演会で、自分がどちらの解釈に立つ かは言わない。でも、そのどちらよりもずっと大切な、根本的なことを伝えている。それ は、性は、神さまから与えられたものだということ。LにしてもGにしても異性愛者であ ってもTであっても、それが神さまから与えられた性であり、性は自分で選ぶものではな いのだ、ということが、聖書の伝えるメッセージなの」。

先生の言葉は私の心にストンと落ち、長く目を覆っていたウロコが、私の目からポロっ と落ちた気がしました。

聖書の伝える、性についての絶対的なメッセージは、人のアイデンティティの基礎であ るジェンダーも、行為としてのセックスも、神さまのものであって、私のものではないと いうことです。ジェンダーは、どんな形であっても、神さまから与えられた祝福であって、

私たちはそれを受け取り、自分のジェンダーを通して、神の創造の輝きを表わす。また、行為としてのセックスも、神さまの定められた祝福の中で、つまり結婚という契約の中で 喜び楽しむことが、セックスの喜びを私たちに与えてくださった神さまへの積極的な応答 になります。

ついでに言うと、聖書は性に対して、きわめて肯定的で積極的です。パウロは「夫は自 分の妻に対して義務を果たし、妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。互いに相手を 拒んではいけません」(Iコリント 7:3-5)と語ります。聖書に従えば、夫婦のセックスレ スはあり得ないのです。

性は神さまが与えてくださった祝福です。私たちは互いにそれを尊重し、そこに神のみ わざを覚えるべきです。結婚もまた、神のみわざであり、神がご自分の主権のもと、人に 与えた祝福です。

「姦淫してはならない」という教えの前に、私たちは、姦淫しないことに心を集中させ るのではなく、積極的に、神さまの祝福を、神さまの方法で味わう人生を求め、性をとも なう自分自身を、また性をともなう周りの人々を、神の素晴らしい被造物として認めてい く。それこそが、この教えを豊かに生きていることになるのです。

お祈りいたしましょう

神さま。私たちに性の祝福を与えてくださってありがとうございます。その恵みを、神さ まの方法で喜び味わっていけますように。

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