「人を生かす」

2020年3月1日より、説教の内容が、文字で読めるようになりました。また合わせて説教の録音音声も聞けますので、そちらも合わせてご利用ください。3月1日第一主日の説教は「人を生かす」です。

音声で聞きたい方はこちらをクリックして聞いてください。
「人を生かす」(マタイ5:21~26)

 「十戒」という映画があります。今から65年も前に公開された、上映時間3時間半以上の大作です。

 十戒とは、旧約聖書に出て来る言葉で、預言者モーセが神から与えられた、10の言葉のことです。信仰者がどのように生きるべきか、その指針が書かれています。最初の4つは神さまへの信仰の姿勢について語られ、5つ目は、親子関係について、そして残りの5つは人間関係について語られています。その人間関係の教えのトップに出て来る言葉が「殺してはならない」という教えです。

 以前、週報の裏に「キリスト教そこが知りたい」というコラムを連載していました。その中で、まだクリスチャンではない女性ハルナちゃんが、「殺してはならない」なんて当たり前のことを、なぜ聖書はわざわざ記しているのかと牧師に質問し、いろいろ話す中で、聖書の言う「殺してはならない」は、単に、刑法上の罪に限定されないことを知る、というお話を書かせて頂きました。今日の週報の裏面に載せたので、またご覧になってみてください。このハルナちゃんと牧師との会話の中で、中心的に議論されるのは、何が人を殺すのかという点です。人間は、たとい健康であったとしても、精神的には死んでいるということがあります。

 キルケゴールという哲学者は、絶望が人を死なせると言いました。また、岡田尊司さんという精神科のお医者さんがいるのですが、その方は書かれた本の中で、愛の欠乏が人を死なせると言いました。

 先週お話しした聖書箇所、覚えていらっしゃるでしょうか。20節で、イエスさまはクリスチャンたちに、律法学者やパリサイ人といった宗教学者たちにまさる、みことばへの応答をしなさいと言われました。

 宗教学者たちは、「殺してはならない」をいわゆる、刑法上のことだけで捉えていました。そして彼らは、決して殺人罪などおかさなかったのです。しかし彼らは、宗教的な自分の生き方を鼻にかけ、多くの人を見下していました。宗教学者たちは民衆に尊敬され、支持されていましたから、彼らの態度はやがて、人々の間に差別を生み出し、差別された人々は、社会的な死に追いやられ、またそれは実際に貧困や孤独を生み、最終的には肉体の死に追いやられたのです。

 「殺してはならない」。宗教学者たちは、自分はこのみことばにちゃんと応えていると思っていました。しかしイエスさまは、彼らの応答の仕方は全然違うと言われます。そしてクリスチャンたちに、「殺してはならない」というみことばにどう、応えるべきか、宗教学者たちの生き方を超える姿勢を示されるのです。

 イエスさまは、人を殺す凶器を3つ挙げます。ひとつは言葉、二つ目は無視、三つ目は争い。

 主イエスの解釈によれば、聖書のみことばはすべて、神を愛し、人を愛することに繋がります。つまり、「殺してはならない」をイエスさま流に言い換えるなら、「人を生かす関わりを持ちなさい」となるでしょう。

 キリストは言われました、22節「わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます」。

主イエスが指摘する殺人の凶器の一番目は、言葉です。

「兄弟に対して」とイエスさまは言われますが、兄弟とはもっとも身近な人たちという意味です。しかしこれは、親しい間柄の人間関係について言及された教えというより、兄弟というもっとも身近な人にさえしてはならないのだから、ましてや他人に対して、やって良いはずがないという意味で語られています。つまりこれは、すべての人に向かって語る言葉についての教えです。

また、「最高法院」とは当時の最高裁判所のこと、燃えるゲヘナとは神のさばきを象徴する言葉であって、言葉で相手を罵ることは、殺人罪と同等の重罪なのだと、イエスさまはハッキリ言い切っています。

もちろん、バカという単語を問題にしているのではありません。イエスさまも、心のかたくなな宗教学者たちに「愚かな者たちだ」と言ったことがありました(23:17)。問題なのは、相手を見下す言葉、軽蔑する言葉、怒りに任せて侮辱する行為です。

「ばか。おまえなんて死ね」という言葉を発するのは、心の中で相手を殺すことです。そして、その言葉を投げつけられた人は、その言葉に心を殺されます。あるいはその言葉の凶器にやられて、本当に死を選ぶ場合もあるのです。

いじめによって自殺する人は少なくありません。何年か前、広告代理店で若い社員が過労自殺しましたが、よく調べると、そこには単なる過重労働があっただけでなく、上司が「きみの残業時間は会社にとって無駄だ」などと言っていたことが明らかになりました。

お笑いの世界でも、最近は「傷つけない笑い」が注目されています。昨年のM1グランプリは、まさにこの「傷つけない笑い」を繰り広げた人たちが勝利を得ました。逆に言えば、これまで多くの人が、傷つける笑いで、被害を受けていたということになります。

主イエスは、みことばを愛で成就されます。ですから、その主に従う私たちは、言葉の凶器を手放すだけでなく、人を生かす言葉を手にして、人と関わるのです。

聖書にこうあります、エペソ人への手紙4:29「人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい」、またコロサイ人への手紙にもこうあります、4:6「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい」。

言葉をもって人を生かす。逆に言えば、死んだ人でも、言葉によってよみがえることができるのです。主は私たちを、そのような言葉を語る者へと造り変えてくださいます。その救いの力によって、私たちは人と関わるのです。それが「殺してはならない」というみことばへの応答です。

 二つ目の殺人の凶器は「無視すること」です。

 イエスは言われました、23~24節、 「祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい」。

 「祭壇の上にささげ物をする」というのは、現代の私たちにとっては礼拝をするということです。礼拝に来たときに、誰かとの関係で問題を抱えていたなら、礼拝を献げる前に、その人と仲直りをして来なさいと、主イエスは言われます。

 注意したいのは、ここで問われていることは、自分が誰かを恨んでいるなら、ではなく、相手が自分を恨んでいるなら、という点です。じつは、宗教学者たちも似たことを人々に教えていました。しかしそれは、自分が誰かを恨んでいたら和解してから礼拝しなさい、という教えでした。

 「兄弟が自分を恨んでいることを思い出したら」、これを直訳すると「あなたの兄弟があなたに何か言いたいことがあれば」となります。

 それはもしかしたら、面倒な物言いかもしれません。相手が自分を恨んだいきさつは、客観的に正当なことではなく、相手に問題があるのかもしれません。単なる逆ギレの場合もあるでしょう。もちろん、相手の主張が正しいケースもあります。いずれにしても、自分の心がそれによって傷ついているわけではないなら、無視したほうが得です。かえって、相手が言いたいことに耳を貸すことで、心から平安を奪われかねない。だから、私たちは、そんなことはスルーして、礼拝に来て、神さまからの安らぎで心をきれいにして貰おうと願う。

 でもその礼拝の場におられる神が言われるのです。礼拝はあとにして、あの人と仲直りをして来なさい。礼拝はそれからで良い。

 相手が自分に何かを訴えたいと思っているのに、それを放置しておくのは、相手がこの世にいないように振舞うことと同じです。その時、私たちは、その人を自分の心の中で殺してしまっている。

 主イエスは、相手が自分に言いたいと思っていることを、聞きに行くように命じます。ちゃんと聞き、それを受けとめて、その上で、仲直りの道を探りなさいと言われるのです。勿論それは、我慢して相手の要求を何でものむということを意味しません。相手が恨みを抱いたことに対して、自分の気持ちや立場を伝え、逆に相手に理解を求めるということもあるでしょう。いずれにしても、それは互いの主張を戦わせることが目的ではなく、仲直りが目的です。

ただし、そのように努力しても、相手が受け入れてくれるかどうかはまた別の問題でしょう。どのような結果になろうとも、自分の分を果たすことが大切なのです。

主イエスがこのことを、礼拝と絡めて話されたのには、ワケがあります。神を愛することと、人を愛することは二つで一つであり、どちらか片方だけで成立することはあり得ないからです。

救い主イエスさまは、神の位を離れて、ご自分のほうから私たちを救いに来てくださいました。同じように、私たちも、無視するという凶器を手放して、みずから相手のもとへ赴き、相手と関わりを持つよう召されています。

 さて、主イエスのおっしゃる三つ目の殺人の凶器、それは「争うこと」です。

 イエスは言われます、25節「あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい」。

 イエスさまが活動しておられた時代、人々は、日常的に裁判を利用していました。些細な争いをすぐに訴え出ていたのです。もし裁判に負けたなら、罪の責任は、最後まで容赦なく問われます。27節の「1コドラント」とはおおよそ80円ほどですが、80円程度の細かいところまで、徹底して追及されます。

 この教えは、サラッと読むと、自分が被害を受けた場合のことを想定して読んでしまいやすい。そんな時でも、よっぽどのことがない限り、裁判で争おうなどと考えるな、とそういう教えかと考えてしまいます。でもよく読むと違うのです。

 イエスさまが言っているのは、訴えること、ではなく、訴えられたなら、ということです。相手に被害を与えてしまい、訴えられてしまった。その時、私たちがどうするべきかを、イエスさまは語られました。通常、多くの人が、裁判に勝とうとします。けれどもこの「争いに勝つ」という思いが凶器です。この凶器を捨て、謙遜を握る。それが主イエスの求めておられることです。へりくだって、相手が訴えようとすることに関して、謝罪をする。

 まぁ、私たちの日常生活の中で、裁判や訴訟が生じることは稀です。でも、いっぽうで、自分の失敗やあやまちを責められるということは日常茶飯事です。そういう時、自分を守るために争おうとする気持ちを放棄して、へりくだって謝罪し、自分から和解を申し出る。そのように、相手との関係を死なせることなく、生かす方向へ努めることを、主イエスは求めています。

 先週の水曜日、教会の暦は、受難節に入りました。受難節とはキリストの十字架を心に留めて生活する期間のことです。4月12日のイースターの日まで続きます。

 キリストは、神であったのに、神の身分を捨てて、この世界に来てくださいました。そして、私たちを罪から救うために、十字架にかかって、みずからの命を捨ててくださったのです。

 神に造られたのに神から離れ、神に愛されているのに神を無視して生きる私たちは、神の目には死んだも同然でした。そして、そのまま死んでいくさばきを受けて当然でした。

 しかし神は、私たち罪人を死に追いやることなく、逆に、ご自分がその罪を背負って、ご自分のいのちをかけて、私たちをよみがえらせてくださったのです。

 救い主イエスによって、死んでいたのにいのちを頂いた私たちは、関わる人を殺さないだけでなく、いのちを与える使命に召されています。

 もちろんそれは、人の力で実現できるものではなく、与えられた救いによって、聖霊の働きによって結ばれていく実です。 人を生かす言葉を語り、言葉によって、死んでいる人を生き返らせ、相手から放たれる恨みのことばに背を向けず向き合い、理解しあう関係を作ろうと努め、争いに勝とうとせず謙遜に相手の前に身を低くして和解を申し出るとき、この世界は、十字架にかかってまで私たちを愛してくださった神の愛が具現化し、世界は神の国へと造り変えられていくのです。

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