天の父のように

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マタイ5:43~48

先週は父の日でした。何か特別なことをなさいましたか?

 私たちは、自分を産み育てた親の存在が、自分自身の中に宿っていることを時折、実感します。たとえば遺伝子は先祖代々から受け継がれていて、健康診断や病院の問診票には、親の病歴を書く欄があります。医者はそれを確認して、私たちの病気の傾向を判断するわけです。またそれ以上に、親が持つ人生観や文化は、良くも悪くも、私たちに強い影響を与えています。音楽好きの親に育てられた子どもは、同じように音楽好きになることが多い。親がドラゴンズファンなら、子どももドラゴンズを応援するようになることもあるでしょう。

 私の友人のお母さんは、人の話を聞くのが上手な方でした。教会に通う女性たちはいつもその方に悩みを聞いて貰って慰められていたのです。お母さんはもう既に亡くなりましたが、今、私の友人が、そのお母さんのように教会の人たちの相談相手になって、用いられています。母親の影響が良いかたちで彼女に受け継がれていたのです。北九州でホームレスの支援活動を続ける牧師、奥田知志さんの息子、奥田愛基さんは、政治活動を行う市民運動家として有名です。これもまた、親の影響があったと言えるでしょう。

 もちろん、親から良くない影響を受けたという人もいます。でもガッカリすることはないのです。

 良い親を持った人も、そうでない人も、人は、人生のあるときに、親を替える必要があります。その親とは、天の父なる神さまです。

 クリスチャンは神の子どもです。クリスチャンになると、人は、自分の存在を根底からひっくり返されます。これまで引きずって来た、この世の価値観や文化から卒業し、神の子どもとして新しく生きるようになるのです。信仰を持つとは、人生に何か良いものをプラスして、これまでよりもちょっと幸せになる、という程度のことではありません。自分自身が大変革される、それが救われるということです。

 聖書は、そんな神の子どもたちへ向けて書かれました。ですから、率直に言って、無茶なことも書かれています。一般常識からみて、そこまで要求しなくてもと良いのに!いうことが少なくない。それで私たちはしばしば、自分で勝手に判断して、この教えには従おうとか、これはまぁスルーしてもいいやとかと区別しがちです。しかし、自分がどういう立場になったかをわきまえているなら、それは出来ないはず。

 クリスチャンは、信仰を持った時点で、神に、子どもとして、迎え入れられました。そして聖書は、その神の子どもが、神の子どもとして生きる道を示した書物です。神の子どもの生き方だから、世間の常識から外れていて当然です。

 今日の箇所も、常軌を逸した教えの一つだと言えるかもしれません。

 44節「わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。

 これは、人類共通の道徳訓ではありません。この言葉を、たとえば、啓発ポスターの標語にするのは、本来の意図から外れています。インドの政治家ガンジーが、「イエスのこの言葉をみんなが実行したら世界平和が実現する」と言いましたが、そうは決してならない社会の中で、これを実行することを神の子どもたちは、求められているのです。何のために?答えは45節「天におられるあなたがたの父のこどもになるためです」。

 自分の敵を愛しなさい。これは、世界平和実現のために語られたのではありません。このみことばが語られたのは、神の子どもたちが、天の父なる神の栄光を自分の存在を通して現わすためです。どうして、このみことばを実行することによって、神の栄光を現わせるのでしょう?それは、天の父なる神が、敵を愛する方だから。私たちは、神の子どもとして、天の父なる神のように歩みなさいと言われています。

 天の父のように生きる。そのためには、まず、父を知ることが大切です。

 主イエスは言われました。45節「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」。悪人、正しくない者とは、神を無視し、あるいは神に歯向かい、神の願うことにことごとく抗う者だと言えるでしょう。けれども神は、そのような者たちにも太陽の光、雨の潤いを与えると主イエスはおっしゃいます。ご自分の愛や恵みを、人によって分け隔てなさらないのです。勿論、悪の行為に対しては、きちんとさばかれます。しかし、悪人が新型コロナウィルスに罹患して、死の恐怖に怯えるとき、神は、その者の苦しみを思いやり、顧みられる。正しくない者が災害で家族を失ったとき、泣く彼とともに涙を流してくださる。それが私たちの天の父なのだとイエスはおっしゃるのです。

 当時、イスラエルの人々は、43節「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われて」いました。神さまがおっしゃったのではありません。聖書には書いてありません。人々がそのようなことを言い始め、それがいつしか、イスラエル社会の常識になっていました。彼らは、自分たちは信仰を持っていて、神にとって特別な存在だと過剰な自意識を持っていました。確かに神にとって、神の民イスラエルは特別でしたが、それは、神を知らない社会に神の愛を示し、彼らが救われるためにお仕えしなさいという意味での特別な存在であって、決して神の愛をひとりじめできるという意味ではなかったのです。

 神のことばである旧約聖書にちゃんと耳を傾ければ、イスラエル人が、このような誤った考えに陥ることはなかったはず。

 でも私たちも彼らと同じ間違いをしかねません。自分自身でちゃんと聖書を調べずに、何となくキリスト教のイメージを曖昧に抱き、聖書の言葉から直接ではなく、教会の誰それの言葉で、神を知った気になる。それはホントに大丈夫なのでしょうか?

 天の父の子どもとして、天の父のように生きるためには、父を知る必要があります。そしてそのためにどうしても必要なのが、聖書を知るということです。その聖書が語る神は、正しい人や善人だけでなく、すべての人に恵みと愛を注いでくださいます。私たちはその神のように生きるのです。

 まぁしかし、太陽を照らすとか雨を降らすとかでは、あまりにも高すぎて、何をモデルにすれば良いのか分からないという気もします。イエス・キリストは、そんな私たちに、神がどのような方かをもっと具体的に現わすため、この世界に来てくださいました。御子イエスと父なる神とはひとつです。なので、福音書に書かれたイエスさまの生き様を見れば、私たちが神の子としてどのように生きれば良いかを知ることができます。

 イエスさまは、異教徒の病気を癒やし、ユダヤ人が異端宗教だと差別していたサマリヤ人を救いに行き、厳格な宗教家たちが自分を十字架にかけて殺しても、彼らの罪の赦しを祈りました。イエスさまは、自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈ったのです。この主イエスの行為に、父なる神の姿を見ることができます。そして私たちはその子どもなのです。

 だから主イエスは言われます、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。

 なぜ、そのように求められるのかについて、最初のほうで、お話ししました。45節「天におられるあなたがたの父の子どもになるため」である。この言葉から、間違ったアプローチを受ける危険があるので、少し、説明させてください。言葉面だけを見ると、敵を愛し、迫害する者のために祈れば、天の父の子どもになれる、と理解してしまいがちです。しかしそうではありません。言われているのは手段ではなく、結果です。敵を愛し迫害する者のために祈るのは、神の子になるための前提条件ではなく、神の子となった結果なのです。神の子どもになったのなら、神と同じ命を持っている。同じ命を持っているのであれば、同じ性質が現れ出てくるはず。そういうことです。

 天の父の子どもになったのなら、ちゃんとそれを現わして生きていきなさいと、主イエスは言われます。クリスチャンは、神の栄光を現わし、神のために生きるのです。信仰生活とは、自分の喜びのために信仰するのではなく、神の喜びのために自分の人生を献げて生きるということです。

 山上の説教は、人道的で平和活動に相応しい教えに溢れています。宗教を超えて、世界のすべての人に影響を与えてきました。しかし、説教者である主イエスがこの教えを語られた意図は、人生訓を教えるためではありません。きわめて宗教的な話をなさったのです。ここで語られている生き方とは、神のあり方そのものであり、救われてその神の子どもにさせられた者は、このように生きるようになる、それがキリストの与える救いなのだということ。山上の説教はそういう意味で、信仰のガイドブックと言えます。

 でも、自動的にそうなるかと言えば、そうでもありません。

 先日、ヒマワリの種を大量に貰いました。正直、困って、ハムスターを飼っている人がいれば、あげてしまいたいとも思いましたが、ネットで調べたら、今から蒔いても、秋に咲く可能性があることが分かり、で、蒔いてみました。咲くかどうかは分かりませんが、もしも種を貰っても蒔かなければ、最初から花が咲くことはありません。また蒔いても、水をやらなければこの暑さの中で枯れます。

 天の父なる神の子どもであることも同じです。救いはすべての人に授けられていますが、その救いを育てなければ、実は実りません。天の父の子どもとして、父の栄光を現わす存在にはなれないのです。

 救いを育てたいですか?救いの花を咲かせたいですか?父の栄光を現わす生き方をしたいですか?この質問に「はい」と答えて欲しいのです。

 「はい」ならどうするか。聖霊さまに、与えられた命を育てて頂きましょう。そのために私たちがすべきことは、聖霊さまの働きの場所を確保すること。つまりみことばを読み、祈り、成長したいと願い続けることです。もしも信仰生活の中で、聖霊の働きを感じられないというのなら、それは、聖霊さまに働いて頂く場を十分に確保していないからだと思います。

 聖霊さまは、私たちに授けられた救いを必ず、成長させてくださいます。

 だから主イエスは言われるのです、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。

 このみことばを実行するコツがあります。それは、父なる神から目を離さないこと。

 敵を見てはいけません。迫害する者を見てもいけない。その中で生じるのは愛でも祈りでもなく、憎しみだけです。人間は弱い存在ですから。

 また、「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」という価値観で生きる者たちの生き方を見てもいけません。イエスはおっしゃいました、46~47節「自分を愛している人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけ挨拶したとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか」。取税人、異邦人とは罪人、また異教徒のことです。イエスさまが取税人や異邦人をそのように差別していたのではなく、イエスさまの説教を聞く者たちのホンネがそうであったので、イエスさまは、劇薬投与をするように、そのように話されました。彼らは主イエスのみことばを聞き、自分たちの生き方が、罪人や異教徒の行動と同じだと悟って、恥じいったのです。

 では何を見るのか。父を見るのです。悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる、天の父なる神を見つめる。

 主イエスは、十字架にかかった時、苦しみながら、ずっと父を見ておられました。そして迫害者のために父に祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください」。

 初代教会の伝道者ステパノは、まさに迫害を受けて、石打ちに遭う中、霊の目で、主イエスを見つめ続けました。そしてステパノも「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と、迫害者のために祈りながら死んでいったのです。ステパノは、父なる神の子どもとして、父の栄光を現わして生き、死にました。

 神の子どもたちの愛や赦しは、相手の出方によって左右されません。父の愛が行動の動機になるからです。相手がどのように敵対しても、どんな迫害をして来ても、動揺させられるはずがない。

 だから、主イエスは言われます、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。

 さらに、こうも。48節「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」。

 天の父は完全です。敵を愛するだけでなく、21節から続く、人を殺すのではなく生かすこと、人のジェンダーやセクシュアリティーを尊重すること、真実を語ること、復讐しないことにおいて、天の父が完全であるように、父の子どもであるクリスチャンたちも完全でありなさいと主イエスは言われます。

 「ありなさい」という強い言い方に、私たちは困惑するかもしれません。じつはこの言葉は原語で見ると、将来の約束を含んでいます。もしも私たちが父のようになることを求め続けるなら、必ずそうなると、約束されている言葉です。

 クリスチャンは父なる神の「子ども」であって、父なる神の「コピー」ではありません。クリスチャンになったからと言って、いきなり、神のように行動できるわけではない。神さまから、親の愛情と訓練を受けつつ、小さな子どもがゆっくりゆっくり成長していくように、私たちは父なる神の完全さに向かって育っていくのです。教会は、成長途上にある者同士が集まって、お互いに支え合い、励まし合い、共に成長を目指す場所です。成長を目指し、期待し、聖霊さまに場所を開けて、神のみことばに挑み続けるなら、必ず、私たちは、父なる神の完全へと成長します。

 その成長を、神は楽しみにしていてくださいます。私たちは、父なる神のように、他者を愛し、相手の出かたに振り回されずに、いつでも相手を祝福するものとなります。そのように生きることは、人間として本当の幸いであると同時に、救われて神の子どもとされた者が、救ってくださった神へ果たす責任でもあるのです。 私たちは天の父なる神さまの子どもです。子どもは父の強い影響力を受けて育ちます。その影響力が100%、自分のうちに満ちて、天の父が完全であるように、完全な愛の人になる日が、必ず、訪れます。私たちが成長することで、神は栄光を受け、私たちは成長することで、神を賛美するのです。

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